東京都調布・三鷹の新撰組観光地・ゆかりの地

龍源寺(近藤勇の墓)|三鷹・調布エリアの新撰組ゆかりの地観光スポット

更新日:

龍源寺の近藤勇像

龍源寺の近藤勇像

龍源寺三鷹と調布の市境にある曹洞宗の寺で、近藤勇の墓があります。
近藤勇の従弟の新撰組隊士・宮川信吉の墓もあり、ほかに近藤勇の胸像「近藤勇と天然理心流」の碑などもあり、御朱印もいただけます。
調布市の近藤勇生家跡から徒歩4分の近さです。
ここでは三鷹の龍源寺を紹介します。

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三鷹龍源寺のアクセス・基本情報

龍源寺のアクセス・基本情報

住所

三鷹市大沢6-3-11

アクセス

三鷹駅から鷹52系統「榊原記念病院行き」または「朝日町三丁目行き」「車返団地行き」バス乗車、竜源寺バス停下車で徒歩1分

駐車場

あり

御朱印

あり

関連サイト

みたか都市観光協会のサイト

龍源寺の地図

三鷹龍源寺にある近藤勇の墓

近藤家墓地の墓

近藤家墓地の墓の位置

本堂の左脇を通って、奥の墓地に進みます。
墓地に入ってすぐ右に、近藤家の墓所があります。
説明板の後ろなのでわかりやすいです。

近藤勇の墓

近藤勇の墓

近藤勇の墓。卒塔婆に戒名の一部が見える

正面に五基並んだお墓のうち、右から二番目が近藤勇の墓です。
表面は少し風化・変色して読みにくいですが、後ろの卒塔婆に「貫天院殿純義誠忠大居士」という戒名の一部が読み取れます。
「天を貫く純粋な義・誠・忠義」という称賛に読めますね。
土方歳三が会津天寧寺に近藤勇の墓を作ろうとした時、松平容保から賜った戒名は「貫天院殿純忠誠義大居士」なので、真ん中の「義・誠・忠」の順番が逆になっています。
近藤勇には他に、板橋駅前の最初の埋葬地と見られる墓石に、別の戒名もあります。

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近藤つね(妻)の墓

近藤勇とつねの墓

近藤勇(左)とつね(右)の墓

近藤勇の妻・つねは、近藤勇の墓と並ぶ一番右の「先祖代々之墓」に葬られています。明治25年死去。

近藤勇五郎(娘婿)・たま(一人娘)の墓

近藤勇五郎とたまの墓

近藤勇五郎とたまの墓

右から三基目、近藤勇の左隣の墓が、近藤勇五郎(甥で娘婿)とたま(近藤勇の娘)の墓です。
近藤勇五郎は、近藤勇の長兄・音五郎の息子です。
板橋で処刑された近藤勇の遺体を、ここまで運んだのが音五郎・勇五郎親子。
明治9年に近藤勇の一人娘・たまと結婚し、天然理心流五代目となります。
近藤勇生家近くの「發雲館」道場を運営していました。
昭和8年死去。

近藤久太郎(孫)の墓

近藤久太郎(近藤勇の孫)の墓

近藤久太郎(近藤勇の孫)の墓

近藤久太郎の墓は、五基並んだうちの一番左です。
近藤久太郎は、近藤勇五郎とたまの息子です。
日露戦争に出征し、明治38年、中国の病院で戦病死しました。
ここで近藤勇の嫡流の子孫は絶えます(近藤勇とお妾さんとの子の血筋は続いているようです)。
近藤久太郎の名が載った日露戦争の慰霊碑が、布多天神社境内にあります。

近藤勇辞世の句の碑

近藤勇辞世の句の碑

近藤勇辞世の句の碑

近藤家墓所の左横に、近藤勇辞世の句が刻まれた碑があります。

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近藤勇が龍源寺に葬られたとされる経緯

近藤勇埋葬当時の墓石(板橋駅前)

近藤勇埋葬当初の墓石(板橋駅前)

近藤勇は板橋で処刑され、首は京に晒されます。
体は、板橋に一度葬られます。
近藤勇の長兄・音五郎と、甥の勇五郎親子が、処刑から3日後、処刑された馬捨て場の者に金を握らせて遺体の場所を聞き、掘り出します。
京で負った肩の銃創で、これが近藤勇の遺体で間違いないということになり、体を掘り起こし、夜を徹して運びました。

途中、妻・つねと娘・たまが身を寄せていた中野坂上成願寺に寄って一休みします。

明け方になって生家付近に戻ってくると、相曽浦橋(あいそうらばし)で親族などが出迎え、遺体を洗ったとも言われます。
そのようにして近藤勇の体が葬られたのが、ここ龍源寺と伝わっています。

別の説についてはこちらで解説しています。

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三鷹龍源寺にある新撰組隊士・宮川信吉の墓

近藤勇の従弟・宮川信吉の墓

宮川家の墓所の位置

宮川家の墓所の位置。写真左に写っている

近藤勇の従弟の新選組隊士・宮川信吉の墓は、近藤家の墓所を通り過ぎた次のブロックにあります。
近藤家の墓所にも「近藤新吉」(天然理心流7代目)の墓があるので間違えやすいですね。

宮川信吉の墓の位置

宮川信吉の墓の位置。左手前

宮川家墓所には、正面に五基、左右に1基ずつのお墓が並んでいます。
その、左手前に通路を背に建っているお墓が宮川信吉のもの。
戒名は「良忠院義栄道輝居士」。
京都・壬生の光縁寺にも墓があります。

宮川信吉の新撰組加入と死

宮川信吉の墓

宮川信吉の墓

宮川信吉は、近藤勇の父の妹の子です。
天然理心流の門人で、慶応元年(1865年)、土方歳三たちが江戸に来て隊士募集した時に新選組に入隊。
最初は土方歳三の秘書のようなことをして、その後沖田総司の一番隊に配属されます。
宮川信吉が自分の隊で元気にやっていると知らせる手紙を、沖田総司が宮川音五郎に送っています(日野市・新選組のふるさと歴史館に展示)。
伊東甲子太郎の殺害にも加わっています。
慶応3年(1868年)、京の天満屋事件で海援隊・陸援隊士に斬られ、25歳で亡くなります。

天満屋事件

坂本龍馬の暗殺犯と疑われた紀州藩の三浦休太郎(いろは丸賠償問題でもめていた)が、海援隊・陸援隊に命を狙われます
このため、会津藩を通して新選組が三浦休太郎の警護につきます。
警護メンバーは斎藤一、大石鍬次郎、宮川信吉など。
旅籠の天満屋で警護を受けていた三浦休太郎を海援隊・陸援隊が襲撃し、入り乱れての戦闘で、新選組側は宮川信吉と舟津釜太郎が斬られ、亡くなります。
三浦休太郎は頬に傷を負いますが無事でした。

三鷹龍源寺門前の近藤勇関連の碑

駐車場になっている龍源寺門前左手に、いくつか近藤勇関連の碑があります。

近藤勇の胸像

龍源寺の近藤勇像

龍源寺の近藤勇像

一番左手に、近藤勇の胸像があります。
没後100年で作られたもののようです。
西光寺のものより小ぶりですが、面影がうかがえますね。
その右にあるのは、胸像建立に協賛した方々の名前が載った碑です。

「史跡近藤勇墓所」の碑

史跡・近藤勇墓所の碑

史跡・近藤勇墓所の碑

この龍源寺に近藤勇の墓所があるということを示した碑。
ここはお墓ではありません。

「近藤勇と天然理心流」の碑

「近藤勇と天然理心流」の碑

「近藤勇と天然理心流」の碑

三鷹市剣道連盟が建てた碑。
天然理心流四代目である近藤勇のことと、三鷹市で近藤勇慰霊剣道大会を毎年開催していることが刻まれています。

近藤勇の体の埋葬地:龍源寺説と板橋説

近藤勇埋葬当時の墓石(板橋駅前)

近藤勇埋葬当時の墓石(板橋駅前)

近藤勇は斬首に処せられた後、首は京で晒されました。
近藤勇の胴体の埋葬地には、龍源寺説と板橋説、二つの説があります。

龍源寺に運ばれた説では、処刑から三日後に、板橋の墓所を近藤勇五郎たちが掘り起こし、龍源寺に運んでいます。
板橋説では、賊軍だからと遺体を冒涜されないよう、板橋の人たちが夜通しかがり火をたいて見張りをしていたという古老の証言から、掘り出すのが難しかったこと、後年首のない遺骨が発掘されていることなどが根拠で、近藤勇の体はそのまま板橋に埋葬されている、となっています。

龍源寺でも板橋でも、調査で首のない遺骨が見つかっているので、絶対にどちらの説だ!とは言えない状態です。
ただ、龍源寺の遺体は、昭和の調査で、近藤勇の子供の頃の足の骨折跡が確認できたことから、信ぴょう性が上がっています。
そのため、板橋の方は前月処刑された幕府歩兵のものか、当日の別の刑死人ではないかとも言われています。

近藤勇の体がある場所にお参りしたい方は、龍源寺と板橋駅前の墓所の両方にお参りするといいですよ。
どちらの説だとしても、龍源寺は近藤家・宮川家のご家族がお守りしてきた大切な墓所です。
板橋の墓所も、それを建てた永倉新八の想いのこもった場所となっています。

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三鷹龍源寺の御朱印

龍源寺の御朱印

龍源寺の御朱印

御朱印は本堂右手の建物の玄関で、チャイムを押していただきました。

「江戸・幕末・維新志士ゆかりの地でいただく御朱印ハンドブック」にも、龍源寺の御朱印が載っていました。

三鷹龍源寺のほかの見どころ

近藤勇が生きた当時からある大銀杏

龍源寺の大銀杏

龍源寺の大銀杏。冬なので葉はなかった

本堂を挟むように二本立っている大銀杏。
樹齢300年なので、近藤勇が生まれる前から、生家近くのこの寺にあることになります。
生家の宮川家の菩提寺も龍源寺なので、近藤勇も墓参りに来ることがあったでしょう。
その時から今に至るまで、大銀杏は時の流れを見守っているんですね。

本堂

龍源寺の本堂

龍源寺の本堂

六地蔵

龍源寺の六地蔵

龍源寺の六地蔵。門前。

長寿観音

龍源寺の長寿観音

龍源寺の長寿観音

横穴古墳供養塔

相曾浦橋を渡った向こうに、横穴古墳があります。
その横穴古墳の供養塔が、墓地入口付近、近藤家の墓の向かいにあります。

三鷹龍源寺の歴史

龍源寺の梅

龍源寺の梅

安土桃山時代の末期に、この周辺を開拓した箕輪将監によって創建され、その菩提寺になったと伝わります。
箕輪将監は河内源氏の流れをくむ武将です。

三鷹龍源寺以外で近藤勇の墓・供養塔・位牌がある場所

近藤勇は首を晒されたため、体と首が別々の場所にあります。
さらに、体も首も埋葬地については何通りかの説があるという状態です。

板橋駅前・近藤勇・土方歳三之墓(永倉新八建立)

板橋駅前の近藤勇・土方歳三の墓

板橋駅前の近藤勇・土方歳三の墓

明治になってから、生き延びた永倉新八が建立しました。
板橋で近藤勇が刑死した後、一度その場に埋められたのを、その夜に掘り出して埋め直したと言われる場所が、現在板橋駅前にある近藤勇・土方歳三の墓所です。
永倉新八も本人の希望で、晩年住んでいた北海道の墓から分骨されて、その脇の墓に眠っています。

日野市・高幡不動尊大日堂の位牌

高幡不動大日堂

高幡不動大日堂。近藤勇の位牌もある

高幡不動尊の大日堂に拝観料を払って入り、鳴き龍の奥の細い順路を進むと、近藤勇の位牌があります。
ほかに土方歳三、沖田総司、井上源三郎と、新選組隊士の大位牌も祀られています。

荒川区・円通寺の死節之墓

死節之墓(円通寺)

死節之墓(円通寺)

遺体はここにはありませんが、死節之墓には旧幕府軍の戦没者の名前が刻まれています。
右側面に近藤勇裏面には箱館戦争戦没者として土方歳三の名があります。
その右には彰義隊の墓があるので、新選組離脱後に彰義隊に入って亡くなった原田左之助の墓参りをすることもできます。(独立した墓はありません)

福島県会津若松市・天寧寺の墓(土方歳三建立)

土方歳三が転戦して会津に来て、近藤勇を弔うために作った墓があります。
隣に土方歳三の墓もあります。
また、京に晒された近藤勇の首を、持ち去って会津に埋葬したという書付が近年見つかって、首もここに埋葬されているという説が浮上しています。

参考:「百五十回忌の近藤勇 首は「会津埋葬」最有力? 愛刀のメモ調査、歴史館も支持」(産経ニュース)

愛知県岡崎市・法蔵寺の首塚

京に晒された近藤勇の首を、同志の誰かが奪い、京の新京極にあった寺の和尚に供養を頼み、和尚の転任に伴って愛知県岡崎市に改葬されたという説があります。
昭和34年の伊勢湾台風で、法蔵寺の首塚の台石と守り刀が出土し、台石には「土方歳三」などの名もあったとされています。

この首を頼んだ同志というのが斎藤一という説もあるのですが、近藤勇の首が晒されたころは会津にいるので無理だろうという見方が多くなっています。
大河ドラマ「新選組!」の最後の方、首を奪還しに行く斎藤一の描写は、この斎藤一説からなのでしょうね。

山形県米沢市・高国寺の首塚

近藤勇の従兄弟・近藤金太郎が、京に晒されていた近藤勇の首を米沢に持ち帰り、高国寺に埋葬したという伝承があります。

京都・壬生寺の遺髪塔

壬生寺の壬生塚に、近藤勇の遺髪を収めたとされる遺髪塔があります。

龍源寺周辺の新撰組ゆかりの観光スポット

近藤勇生家跡・近藤神社・發雲館

龍源寺から徒歩4分。
近藤勇の生家はもうありませんが、生家の一部だった産湯の井戸と近藤勇を祀る神社、近藤勇五郎が開いた天然理心流の道場の建物が残されています。

相曾浦橋

近藤勇五郎たちが近藤勇の遺体を板橋から運んできた時、親族や親しかった人が相曾浦橋で出迎えたと伝わります。
龍源寺から徒歩2分。

カフェだんだら

新選組のテーマカフェ。
「誠和っふる」や「誠パフェ」、土曜のみの「だんだらランチ」があります。
店内は新選組の旗やグッズでいっぱいに飾られて見ごたえあり。
龍源寺や生家を見てから三鷹駅方面にバスで戻る時、「仲町通り」バス停で降りると寄れます。

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