日野などと違って、新選組ゆかりの地があちこち散らばっている東京23区は、どこに行けばいいのか最初のうち戸惑いますよね。
でも、東京23区には、まだまだたくさんの新選組ゆかりの場所があるんです。
ここでは東京23区の、御朱印が受けられる新選組ゆかりの地を一覧にしました。
千代田区で御朱印がいただける新選組ゆかりの地
靖国神社
靖国神社の御朱印は1種類。
7月の「みたままつり」期間は、みたままつりのスタンプが押されます。
新選組とは関係ない柄ですが、御朱印帳2種類や御朱印帳袋も頒布されています。
新選組は明治政府に敵対した側ということで、大多数は靖国神社には祀られていません。
が、新選組から分離した御陵衛士は、明治政府の味方側ということで、御陵衛士となった伊東甲子太郎、藤堂平助、毛内有之助、服部武雄、富山弥兵衛が合祀されています。
南門を入った左手(社務所近く)には、桂小五郎、高杉晋作、伊藤博文などが在籍した神道無念流道場「練兵館跡」の石碑があります。
練兵館は、試衛館と交流試合をしたことがあり、他流試合で助っ人を出したという逸話もあります。
靖国神社が建つ時に移転しました。
住所 | 千代田区九段北3-1-1 |
アクセス | 東西線九段下駅から徒歩9分 |
公式サイト | 靖国神社 |
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港区で御朱印・御朱印帳がいただける新選組ゆかりの地
櫻田神社
櫻田神社には、隊服のだんだら模様に沖田家家紋の意匠の御朱印帳(色違い2種類)や、隊服デザインの絵馬、裏が隊服デザインになっている願守などがあります。
オリジナル御朱印帳には最初から、2種類の御朱印(「沖田総司ゆかりの地」とスタンプが押された桜模様のもの、櫻田神社と書かれた通常の御朱印)が書かれています。
港七福神期間(1/1~成人の日)には、寿老人の御朱印もあります。
港七福神の期間外(1/1~成人の日まで以外)は、半紙に書かれた書き置きか、オリジナル御朱印帳に最初から書かれたものだけになります。
不定期に期間限定御朱印が出ている場合も。
御朱印帳は売り切れていることもあるので、櫻田神社公式Twitterで確認。
櫻田神社は、沖田総司が氏子だった神社です。
この神社の裏手に、沖田総司が生まれた白川藩下屋敷がありました。
沖田総司がお宮参りに来たと言われています。
拝殿に向かう途中の石の手水盤、小さい石の鳥居、狛犬、拝殿前の雨水桶などが、沖田総司が生まれる前から残っているものです。
太平洋戦争で焼けた拝殿の再建や境内整備で、位置は変わったようですが、お宮参り当時も境内にあったものと思われます。
住所 | 東京都港区西麻布3-2-17 |
アクセス | 日比谷線六本木駅から徒歩7分 大江戸線六本木駅から徒歩9分 |
公式Twitter | 櫻田神社公式Twitter |
金地院
金地院の御朱印は、本尊とえんま堂の2種類。
金地院には近藤勇の養父・天然理心流三代目の近藤周助の墓があります。
境内えんま堂から、東京タワーを背にして奥方向に進み、奥の金網沿いに墓があります。
墓石正面左下に、「慶応三年霜月二十八日近藤勇昌宜謹上」、裏面に「祠堂金二十両納之」の文字があります。
住所 | 東京都港区芝公園3-5-4 |
アクセス | 日比谷線神谷町駅から徒歩9分 三田線御成門駅から徒歩10分 大江戸線赤羽橋駅から徒歩10分 |
真浄寺(御首題)
真浄寺は日蓮宗なので御首題(1種類)となります。
管理人は御首題帳にお受けしましたが、このお寺では御朱印帳でも同じものを書いているというお話でした。
真浄寺には昭和まで生きた最後の新選組隊士・稗田利八の墓があります。
住所 | 東京都港区麻布台2-3-18 |
アクセス | 日比谷線神谷町駅から徒歩9分 三田線御成門駅から徒歩10分 大江戸線赤羽橋駅から徒歩10分 |
関連サイト | 日蓮宗東京都南部宗務所管内寺院紹介「真浄寺」 |
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文京区で御朱印がいただける新選組ゆかりの地
伝通院
伝通院の御朱印は2種類、本尊・阿弥陀仏と、江戸三十三観音のもの。
伝通院の塔頭(たっちゅう・境内の小さい寺)の一つだった処静院で、新選組の前身・浪士組が結成されました。
当時は境内がもっと広く、処静院跡は門前を向かって左に進んだ方向にありました。
門前の処静院にあった碑のほか、左に進んだ墓地の塀沿いに処静院の案内板があり、どこに処静院があったか載っています。
浪士組を作った清河八郎の墓もあります。
住所 | 東京都文京区小石川3丁目14-6 |
アクセス | メトロ南北線・丸の内線後楽園駅から徒歩10分 |
公式サイト | 伝通院公式サイト |
湯島聖堂
湯島聖堂は史跡ですが御朱印(1種類)があり、仰高門近くの会館窓口でいただけます。
斎藤一が50歳の時から、藤田五郎の名で現在の湯島聖堂の敷地にあった博物館の看守(守衛長)になって勤めた場所です。
仰高門の脇についている門衛(警備の詰め所)に勤めていたと言われています。
仰高門は関東大震災で焼けてしまい再建されたものですが、門衛も再建されています。
その後、当時は同じ構内だった(現在は隣の東京医科歯科大学の敷地)東京高等師範学校の撃剣師範となり、学生に撃剣を教えました。
誰一人、斎藤一の竹刀に触れることさえできない強さだったと伝わっています。
55歳から65歳まで、さらにその隣(現在は東京医科歯科大学の敷地)にあった東京女子高等師範学校で、庶務掛・会計掛として勤めました。
住所 | 東京都文京区湯島1-4-25 |
アクセス | JR御茶ノ水駅聖橋口から徒歩6分 |
公式サイト | 湯島聖堂公式サイト |
護国寺
護国寺の御朱印は本尊の1種類のみ。
本堂に入れるようになっていて、中に御朱印所があります。
護国寺共葬墓地に、新選組隊士・谷口四郎兵衛の墓があります。
谷口四郎兵衛は桑名藩士で、鳥羽伏見や会津で幕府側で戦ったのち、仙台で新選組に入隊。
箱館戦争では、土方歳三が亡くなった5月11日の戦いで被弾し、入院するうちに五稜郭が降伏して戦争が終わりました。
共葬墓地は本堂とは少し離れているので、門前を西(首都高速が見える方向)に進んで共葬墓地入口から入る方が墓は近いです。
区画番号はないのですが、共葬墓地外側の通路沿いの「谷口家之墓」に合葬されています。
脇の墓誌の右から6番目に「謙徳院」という戒名、明治43年12月31日の命日、守成という俗名が刻まれています。
住所 | 東京都文京区大塚5丁目40-1 |
アクセス | 有楽町線護国寺駅から徒歩11分 |
公式サイト | 護国寺公式サイト |
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台東区で御朱印がいただける新選組ゆかりの地
天王寺
天王寺の御朱印は2種類、本尊阿弥陀如来と、谷中七福神の毘沙門天のもの。
隣接する谷中霊園の天王寺墓地に、新選組隊士・大野右仲(おおの うちゅう)の墓があります。
大野右仲は唐津藩士で、蝦夷地に渡航する際に新選組に入隊、箱館では陸軍奉行添役となりました。
「陸軍奉行並」の土方歳三の補佐として箱館戦争を戦った人物です。
土方歳三が戦死した5月11日、大野右仲は一本木関門に行く途中まで土方歳三と一緒でしたが、土方歳三の命令で先に弁天台場方面に進撃しました。
敗走しようとする兵を、後ろを進んでいる土方歳三が止めてくれると思って戦っていましたが、敗走兵の勢いが全く止まらず、戻っても来ないことに異変を感じます。
そして引き返した先で、土方歳三の死を知ったと書き残しています。
谷中霊園の天王寺墓地には区画番号がありません。
谷中霊園の管轄部分は区画番号があるので、天王寺近くから谷中霊園に入り、大通り沿い右側の「甲9-14」の区画からひたすら奥に向かいます。
突き当ったら、大野右仲の墓のそばにある南国風の木を探すとたどり着けます。
「大野氏累代之墓」に合葬され、墓の側面に名前が刻まれています。
住所 | 東京都台東区谷中7-14-8 |
アクセス | JR日暮里駅から徒歩3分 |
関連サイト | 天台宗東京教区「天王寺」 |
今戸神社
今戸神社の御朱印は2種類、今戸神社と書かれたものと、浅草名所七福神もうでの福禄寿。
新選組デザインはありませんが、招き猫のオリジナル御朱印帳が色違いで3種類あります。
沖田総司を診ていた松本良順が一時境内に住んでおり、労咳(結核)の沖田総司が、医学所からこの今戸神社境内に移って療養していました。
永倉新八が沖田総司のことを後に聞いて、「今戸八幡(現在の今戸神社)松本先生宿にて病死」と書き残したことから、「沖田総司終焉之地」碑が建てられています。
が、実際に当時の沖田総司に会っている近藤勇の甥の勇五郎が語った、「今戸八幡から二月末に千駄ヶ谷の植木屋の離れ座敷に移った」という話から、最期の地は千駄ヶ谷の植木屋離れとされています。
どちらの説にせよ、沖田総司は一時、今戸神社境内で療養していました。
また、流山で近藤勇が捕まり、江戸で近藤勇の助命工作をした後の土方歳三たちが、「今戸より八幡宮別当寺に参る」と、同行の中島登などが書き記しています。
この「八幡宮別当寺」が、今戸八幡(現在の今戸神社)の別当寺・松林院(現存せず・現在の今戸神社の東側にあった)と言われています。
土方歳三たちは別当寺に一泊し、翌日市川に向かい、集まっていた幕臣たちと合流しました。
ガイド本によってはこの「別当寺」は、今戸八幡宮ではなく富岡八幡宮の別当寺・永代寺となっている場合もあります。
中島登などが残した記録の「今戸【より】」の部分の解釈によって違う説も出ているようですね。
住所 | 東京都台東区今戸1-5-22 |
アクセス | JR馬喰町駅・JR/都営浅草線浅草橋駅前・都営浅草線/都営大江戸線蔵前駅前・東武浅草駅前から「東42甲」系統バス南千住車庫前行き乗車、「浅草7丁目」バス停下車徒歩3分 JR亀戸駅から「上26」上野公園行きバス乗車、「隅田公園」バス停下車徒歩8分 東武浅草駅前から「東42乙」系統バス南千住車庫前行き乗車、「リバーサイドスポーツセンター前」バス停下車徒歩3分 |
関連サイト | 今戸神社 |
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寛永寺
寛永寺の御朱印は1種類(瑠璃殿)です。
新選組デザインではありませんが、オリジナル御朱印帳が3種類あります。
幕末の寛永寺は、現在の上野公園全域やその周辺もすべて境内とする大寺院でした。
現在寛永寺となっている、根本中堂が建つあたりに、「大慈院」という塔頭(たっちゅう・境内の小寺)がありました。
そこで、鳥羽伏見後の徳川慶喜が謹慎し、新選組が甲陽鎮撫隊となる前の2月、10日間ほど慶喜の警護をしています。
慶喜謹慎の葵の間は大正に再建されたもので、普段は非公開ですが、毎月1日に寛永寺のサイトで募集される「徳川将軍御霊廟特別公開」に申し込むと見学することができます。
また、上野公園全域を含む当時の寛永寺は、彰義隊と新政府軍の上野戦争の舞台になりました。
原田左之助は新選組を抜けた後、最終的には彰義隊に入って上野戦争で戦い、その時の傷が元で、運ばれた江東区の神保山城守邸で亡くなっています。
上野戦争の碑が、現在の寛永寺の境内に建てられています。
住所 | 東京都台東区上野桜木1-14-11 |
アクセス | JR鶯谷駅から徒歩10分 |
公式サイト | 寛永寺 |
寛永寺境内だった上野公園周辺のお堂
幕末には寛永寺の境内だった、上野公園内や周辺のお堂などにも御朱印があります。
現在の上野公園、当時の寛永寺境内は、上野戦争で、原田左之助を含む彰義隊が幕府軍側の陣地として戦った場所です。
なお、原田左之助がどのあたりで戦っていたかは明らかになっていません。
開山堂(両大師・輪王寺)
開山堂(両大師・輪王寺とも呼ばれます)の御朱印は1種類。
寛永寺本坊表門(黒門とは別の門です)が移築されており、上野戦争当時の弾痕があります。
上野公園の北側にある開山堂(両大師・輪王寺とも呼ばれます)は、元は寛永寺を開山した天海僧正を祀るために作られた、寛永寺境内のお堂でした。
天海僧正が尊敬していた慈恵大師ものちに祀られたので、両大師と呼ばれます。
寛永寺は江戸時代、皇室から貫主を迎えており、この皇族が「輪王寺宮」でした。
幕末の最後の輪王寺宮・北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさしんのう)は、幕府側に立って徳川慶喜の助命嘆願を行います。
上野戦争では彰義隊に守られ、危険になって脱出した後は会津から仙台へと移ります。
そして、幕府側の同盟「奥羽越列藩同盟」の盟主になります。
この時、奥羽越列藩同盟では輪王寺宮を「東武帝」として擁立していたという説もあります。
会津の降伏後、輪王寺宮は謹慎し、ドイツの陸軍大学校に留学します。
そこでドイツの未亡人(男爵夫人)と婚約しようとしますが、日本政府から婚約を許されず、悲恋に終わります。
帰国後は陸軍師団長となって日清戦争で台湾に赴き、そこで病没しています。
明治18年に「輪王寺宮の門跡寺院(もんせきじいん・皇族や公家が住職をつとめる寺のこと)」の称号を復活させる許可が出て、輪王寺とも呼ばれるようになります。
住所 | 東京都台東区上野公園14-5 |
アクセス | JR上野駅から徒歩8分 |
公式サイト | 寛永寺開山堂両大師 |
寒松院
寒松院の御朱印は1種類。
ご不在が多いのですが、タイミングが合えばいただけるようです。
この寒松院の住職と、次に述べる護國院の住職が、上野公園で戦死した彰義隊士たちをひそかに供養しました。
現在の「彰義隊の墓」の大きな墓石の前に、小さな墓石がありますが、これは寒松院と護國院の住職が明治2年、墓石として地中に埋めたもので、施主名として小さく、「回向主 沙門松国」と刻まれています。
これは両寺院から一文字取って「松国」としたもので、明治政府を恐れて、匿名で弔ったということです。
寒松院は、幕末には上野東照宮の隣、現在の上野動物園敷地から東京都美術館にかけての場所にありました。
寛永寺の子院であり、上野東照宮の別当寺(上野東照宮を管理する寺)でした。
彰義隊が本陣を置いた場所です。
上野戦争で寒松院も焼けてしまい、のちに移転再建、太平洋戦争で再び焼けて、現在地、開山堂北側に再建されました。
住所 | 東京都台東区上野公園15-11 |
アクセス | JR鶯谷駅から徒歩5分 |
公式サイト | 寒松院 |
護國院(護國院大黒天)
護國院の御朱印は大黒天の1種類。
谷中七福神では色紙にも同じ御朱印のミニチュア版を書いていただけます。
護國院も寛永寺の子寺で、当時は寛永寺境内にあり、寒松院とともに彰義隊士を弔いました。
寛永寺の子寺の中で珍しく、上野戦争で焼けなかった寺で、昭和2年に現在地に移転しています。
住所 | 東京都台東区上野公園10-18 |
アクセス | 千代田線根津駅から徒歩8分 |
公式サイト | 天台宗東京教区「護國院」 |
清水観音堂
清水観音堂の御朱印は、千手観世音1種類です。
新選組デザインではありませんが、オリジナル御朱印帳も2種類あります。
上野公園内でも、彰義隊の墓やかつての寛永寺黒門跡(京成上野駅方面から公園に入り、噴水や蜀山人の碑があるあたり)など、彰義隊の上野戦争関連の場所に比較的近い場所にあります。
上野戦争でほとんどのお堂が焼けた中、清水観音堂は焼失しませんでした。
ただ新政府軍に接収された後放置された期間もあり、傷んでいたため、平成に解体修復工事をしています。
堂内に、上野戦争を描いた絵馬があります。
正面からお堂に入って振り返った天井側と、正面から入って右側の絵馬が上野戦争を描いたものかと思われます。
住所 | 京都台東区上野公園1-29 |
アクセス | 京成上野駅から徒歩3分 JR上野駅から徒歩6分 |
公式サイト | 清水観音堂 |
パゴダ(薬師如来)・上野大仏(釈迦如来)
パゴダと上野大仏の御朱印は、パゴダ内の薬師如来のもの1種類と、そばの顔だけ残っている上野大仏(釈迦如来)のもの1種類。
以前は清水観音堂でいただくことになっていましたが、今は10~15時、パゴダ手前の売店の建物で受け付けています。
上野大仏は元々、6メートルの釈迦如来像でした。
上野戦争では焼けなかったのですが、関東大震災で頭部が落ち、太平洋戦争の金属供出で顔以外の部分が供出され、顔だけが祀られています。
「もうこれ以上落ちない」ということで合格祈願スポットになっています。
パゴダ自体は昭和に建造されたものですが、パゴダ内の薬師如来と左右の日光菩薩・月光菩薩は、幕末には上野東照宮内にあった薬師堂の本尊でした。
薬師如来と菩薩像は明治に寛永寺に移り、現在はパゴダ内の本尊になっています。
住所 | 東京都台東区上野公園4-8 |
アクセス | JR上野駅から徒歩5分 京成上野駅から徒歩6分 |
公式サイト | パゴダ(上野大仏) |
不忍池辨天堂
不忍池辨天堂の御朱印は、「辨天」の1種類。
新選組デザインではありませんが、オリジナル御朱印帳も2種類あります。
ここも、黒門跡(蜀山人の碑付近)や彰義隊の墓など、彰義隊の上野戦争関連の場所に近い場所にあります。
上野戦争では、不忍池の向こうに見える本郷台(現在の東大病院など付近)に、新政府軍の佐賀藩砲兵隊が布陣し、アームストロング砲を不忍池を越えて打ち込んできました。
このアームストロング砲の威力が勝敗を決定付けたと言われています。
住所 | 東京都台東区上野公園2-1 |
アクセス | 京成上野駅から徒歩5分 JR上野駅から徒歩6分 |
公式サイト | 不忍池辨天堂 |
五條天神社
五條天神社の御朱印は1種類。
隣の花園稲荷神社の御朱印も、五條天神社の社務所でいただきます。
五條天神社は室町時代から現在地付近にあったのですが、江戸時代には現在のアメ横入口あたりに移転していました。
昭和に、現在の場所に戻ってきました。
そのため、上野戦争当時にはこの場所にはなかった神社です。
五條天神社の場所自体は、上野戦争最後の激戦「穴稲荷門の戦い」の舞台になった花園稲荷のすぐ隣で、このあたりも激戦だったと思われます。
住所 | 東京都台東区上野公園4-17 |
アクセス | 京成上野駅から徒歩4分 JR上野駅から徒歩9分 |
関連サイト | 東京都神社庁「五條天神社」 |
花園稲荷神社
花園稲荷神社の御朱印は1種類で、隣の五條天神社の社務所でいただけます。
拝殿に背を向けて進んで左方向に、元の社殿跡「穴稲荷(忍岡稲荷)」があります。
鳥居と扉があり、「御参拝の方は扉を開けてお進みください」となっています。
上野戦争では「穴稲荷門の戦い」という、彰義隊最後の激戦地となった場所です。
敗色濃厚になった彰義隊士がこの穴稲荷(当時)に立てこもり、新政府軍は不忍池から大砲を撃ったと伝わります。
この戦いで穴稲荷は焼け、明治に花園稲荷と名を変えて再建されています。
住所 | 東京都台東区上野公園4-59 |
アクセス | JR上野駅から徒歩4分 京成上野駅から徒歩9分 |
関連サイト | wikipedia「花園稲荷神社」 |
上野東照宮
上野東照宮は、通常の御朱印1種類のほか、期間限定の「ぼたん園開園期間」「桜の季節」の御朱印があります。
(上の写真は桜の季節のもの)
新選組デザインではありませんが、オリジナル御朱印帳も2種類あります。
ここも寛永寺の境内でした。
住所 | 東京都台東区上野公園9-88 |
アクセス | JR上野駅から徒歩4分 京成上野駅から徒歩9分 |
公式サイト | 上野東照宮 |
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墨田区で御朱印がいただける新選組ゆかりの地
霊山寺
霊山寺の御朱印は1種類。
新選組を脱退した永倉新八と原田左之助が、靖共隊(靖兵隊とも)を結成し、旧幕臣が集まっていた市川の国府台(鴻之台)に向かいました。
その途中で二泊したのが、この霊山寺です。
宿泊中に隊内で対立があり、この寺で隊が2つに分裂しました。
そのため、市川で幕府軍と合流するのに間に合わず、別の道を進みますが、茨城県で合流する前に、現在の千葉県野田市にあった山崎宿で原田左之助は引き返してしまいます。
住所 | 東京都墨田区横川1-3-22 |
アクセス | JR亀戸駅から「草24系統」バス浅草寿町行き乗車、「横川橋」バス停下車徒歩1分 JR/半蔵門線錦糸町駅から「都02」系統バス大塚駅前行き乗車、「太平2丁目」バス停下車徒歩5分 |
関連サイト | 浄土宗寺院紹介「霊山寺」 |
江東区で御朱印がいただける新選組ゆかりの地
冬木弁天堂(1/1~15まで限定)
冬木弁天堂の御朱印は1種類。
普段は無人ですが、1/1~15の深川七福神期間だけ御朱印が受けられます。
冬木弁天堂の境内には、永倉新八と神道無念流で同門だった、芳賀宜道(はがよしみち)が住んでいました。
新選組を脱退した永倉新八と原田左之助は、冬木弁天堂を訪ね、ここで靖共隊を結成します。
芳賀宜道が隊長、永倉新八と原田左之助が副長でしたが、のちに原田左之助は「余儀なき用事これあり」と江戸に引き返し、最終的に彰義隊に入っています。
芳賀宜道は、「奥羽越列藩同盟」の盟主・輪王寺宮から日光奪還を命じられ、永倉新八とともに会津に援軍を呼びに行きますが、会津の決戦を前に米沢に援軍を呼びに行きます。
米沢藩も降伏したので行き場を失い、永倉新八とともに江戸に戻ります。
芳賀宜道は浅草に潜伏していましたが、明治3年、旧居の冬木弁天堂に出かけた際に妻の兄で新政府軍の藤野亦八郎と会います。
酒を飲みかわすうち、藤野亦八郎が新政府軍に入ったことを巡って口論になり、藤野亦八郎の部下にこの冬木弁天堂境内で斬られて亡くなりました。
芳賀宜道は新選組隊士ではないのですが、永倉新八が建立した板橋駅前の新選組慰霊碑に名前が刻まれています。
永倉新八にとって、新選組隊士と同じくらい大切な同志だったことを伺わせます。
住所 | 東京都江東区冬木22-31 |
アクセス | 東西線門前仲町駅から徒歩10分 JR越中島駅から「門33系統」バス亀戸駅前行き乗車、「深川2丁目」バス停下車徒歩1分 |
公式サイト | 深川七福神公式サイト「冬木弁天堂」 |
霊厳寺
霊厳寺の御朱印は、本尊の阿弥陀如来のもの1種類と、江戸六地蔵のもの1種類です。
霊厳寺には、新選組隊士・森常吉の墓があります。
墓地は残念ながら管理人が行った時は、「関係者以外立ち入り禁止」となっていました。
森常吉は桑名藩士で、幕府軍側で戦い、蝦夷地に渡航する時に新選組に入隊。
箱館戦争では土方歳三が救援に行こうとした、弁天台場で戦っていました。
墓は主筋の桑名藩松平家歴代の墓の脇にあるそうです。
住所 | 東京都江東区白河1-3-32 |
アクセス | 半蔵門線/大江戸線清澄白河駅から徒歩2分 |
公式サイト | 浄土宗寺院検索「霊巖寺」 |
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中野区で御朱印がいただける新選組ゆかりの地
成願寺
成願寺の御朱印は1種類です。
中野の成願寺には、近藤勇が甲陽鎮撫隊に出陣した後、近藤勇の妻・ツネと娘のたまが一時滞在していました。
千駄ヶ谷で労咳の療養をしていた沖田総司が、仲間がみな江戸にいなくなってしまったため、たびたび駕籠で成願寺のツネやたまを訪ね、滞在していったという逸話があります。
また、近藤勇の処刑後、甥の近藤勇五郎たちが遺体を掘り出し、夜を徹して故郷に運ぶ途中、この成願寺に立ち寄って休憩したと伝わっています。
住所 | 東京都中野区本町2-26-6 |
アクセス | 丸の内線中野坂上駅から徒歩6分 |
公式サイト | 成願寺 |
杉並区で御朱印がいただける新選組ゆかりの地
久我山稲荷神社
久我山稲荷神社は普段は無人です。
御朱印(1種類)は神職さんが兼務している「下高井戸浜田山八幡神社」でいただけます。
近藤勇の処刑後、甥の勇五郎たちが遺体を掘り出して夜中に運ぶ途中、この久我山稲荷神社の坂下で休憩したと伝わっています。
住所 | 東京都杉並区久我山3-37-14 |
アクセス | 京王井の頭線久我山駅から徒歩6分 |
公式サイト | 久我山稲荷神社 |
下高井戸浜田山八幡神社
新選組と直接関連はありませんが、下高井戸浜田山八幡神社の神職さんが久我山稲荷の神職を兼務しているため、新選組ゆかりの「久我山稲荷神社」の御朱印がこの神社でいただけます。
住所 | 東京都杉並区下高井戸4-39-3 |
アクセス | 京王井の頭線西永福駅から徒歩9分 京王線桜上水駅から徒歩14分 |
公式サイト | 下高井戸浜田山八幡神社 |
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北区で御朱印がいただける新選組ゆかりの地
寿徳寺
寿徳寺の御朱印は1種類です。
近藤勇が処刑された後、近藤勇が幽閉されていた豊田家でひそかに葬儀を行った時に弔った寺。
また、板橋駅前に新選組の慰霊碑を建てる時、東京府(当時)に出す許可の願書に住職が連名で署名しました。
処刑直後から近藤勇の供養に関わり、現在は板橋駅前の近藤勇墓所を管理しています。
門前に、板橋駅前と同じ近藤勇の肖像碑や案内板があります。
住所 | 東京都北区滝野川4-22-2 |
アクセス | 都営三田線新板橋駅から徒歩11分 JR板橋駅から徒歩13分 |
公式サイト | 寿徳寺公式サイト |
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荒川区で御朱印がいただける新選組ゆかりの地
円通寺
円通寺の御朱印は1種類です。
円通寺には、新選組を含む幕府軍側の死者の名を刻んだ「死節之墓」があります。
右側面に近藤勇、野村理三郎、裏面に土方歳三の名があります。
その隣には、「彰義隊戦士之墓」があります。
上野戦争で、現在の上野公園に野ざらしになっていた266人の彰義隊戦死者を、現在上野公園内に建っている「彰義隊の墓」の場所で火葬にしました。
そして、遺骨を葬ったのがここ円通寺です。
原田左之助は最終的に彰義隊に入り、上野戦争で被弾して、運ばれた神保山城守邸で亡くなりました。
遺体がどこに葬られたかは謎のままとなっています。
原田左之助の墓参りをしたい場合は、ここ円通寺の彰義隊戦死之墓か、上野公園内の彰義隊の墓(他の彰義隊戦死者が荼毘にふされた場所)、あとは板橋駅前の近藤勇墓所の慰霊碑(右側面上段に原田左之助の名あり)となります。
さらに、上野戦争で激戦地となった寛永寺の黒門が、移築されて円通寺境内にあります。
弾痕が無数に残っていて、戦いの激しさが実感できます。
住所 | 東京都荒川区南千住1-59-11 |
アクセス | 都電荒川線三ノ輪橋駅から徒歩3分 JR南千住駅から徒歩8分 |
公式サイト | 円通寺 |
延命寺
延命寺の御朱印は1種類。
延命寺は小塚原刑場跡に建つ寺で、永倉新八が友の雲井龍雄(くもいたつお)の首級に会いに来た場所です。
永倉新八は、戊辰戦争で米沢に援軍を呼びに行った時、雲井龍雄(米沢藩士)と親しくなります。
会津も降伏してしまったため、「徳川の遺臣をまとめて薩長の遺臣と最後の決戦をやろう」と約束して別れましたが、明治3年、雲井龍雄が政府転覆を企んで斬首になったという高札を見ます。
首が晒されていたここ小塚原刑場に走り、友の首級と再会し、血涙を流して慟哭した、と「新選組顛末記」に書き残しています。
住所 | 荒川区南千住2-34-5 |
アクセス | JR/日比谷線南千住駅から徒歩3分 |
関連サイト | 荒川区公式サイト「延命寺」 |
小塚原回向院
小塚原回向院の御朱印は1種類。
土日祝日は13時以降の対応という貼り紙があります。
小塚原回向院も、小塚原刑場跡地に建つ寺です。
刑が執行されていたのは延命寺の方です。
小塚原回向院の場所には当時から、死者の供養や埋葬のためのお堂・常行堂があり、これが後に小塚原回向院になりました。
新選組隊士・横倉甚五郎が、坂本龍馬の暗殺容疑で獄中死した後、いったん埋葬された場所です。
横倉甚五郎は、坂本龍馬の暗殺容疑で明治3年、獄中死します。
遺体はいったんここ、小塚原刑場の常行堂に葬られますが、のちに八王子の大法寺に改葬されます。
また、永倉新八の友、雲井龍雄(米沢藩士)が斬首になった後、ここに埋葬され、当時の墓石があります。
史跡エリアの墓所の右側に進んで左手中ほどです。
のちに谷中天王寺墓地に改葬され、その後故郷の米沢の常安寺に改葬されました。
ここには罪人の遺体で日本刀の試し斬りをする「おためし場」もありました。
また、杉田玄白たちの「解体新書」のための腑分けが行われたという碑があります。
住所 | 東京都荒川区南千住5-33-13 |
アクセス | JR/日比谷線南千住駅から徒歩3分 |
関連サイト | 荒川区公式サイト「小塚原回向院」 |