東京都文京区の新撰組観光地・ゆかりの地

伝通院・処静院跡(浪士組結成の寺)|文京区の新選組ゆかりの地・観光スポット

更新日:

小石川伝通院・処静院跡

小石川伝通院・処静院跡

伝通院の境内にあった子院・処静院(しょじょういん)で、新選組の前身・浪士組が結成され、ここから京に上りました。
新選組創設メンバーの多くが、処静院に集まっています。
また、浪士組を作った清河八郎の墓もあります。
徳川家ともゆかりの深い小石川伝通院を、新選組や幕末の関わり中心に紹介します。

もくじ

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伝通院・処静院跡のアクセス・基本情報

伝通院・処静院跡のアクセス・基本情報

時間

開門時間9:00~17:30
本堂拝観10:00~17:00

住所

東京都文京区小石川3丁目14-6

アクセス

メトロ南北線・丸の内線後楽園駅から徒歩10分
錦糸町駅前から「都02系統」大塚駅前行き乗車、「伝通院前」バス停下車徒歩1分

駐車場

あり

公式サイト

伝通院公式サイト

伝通院・処静院跡の地図

新選組と処静院(伝通院塔頭)

浪士組結成の地・処静院

現在の処静院跡

現在の処静院跡。現在は境内の外になっている

文久3(1863)年2月4日と5日伝通院の塔頭(たっちゅう・境内の子院)だった処静院で、浪士組の会合が開かれました。
処静院が使われたのは、住職の細谷琳瑞(公武合体派)が、浪士組取締役の山岡鉄舟と親しくしていたからです。
道中の注意事項が伝えられ、1番隊から7番隊まである、浪士230余名の編成表が発表されました。
このうちの22名が、のちに京都で残留して新選組となります。

最初の発表では、芹沢鴨は3番隊の小頭でしたが、途中で「道中取締手附」という役員に変わり、芹沢組は試衛館組と入り乱れて6番隊に在籍する形になります。

「道中取締手附」に芹沢鴨。
3番隊の小頭に新見錦、平隊士に井上源三郎や沖田林太郎(沖田総司の義兄)、天然理心流門人の中村太吉や馬場兵助、佐藤房次郎。
6番隊の小頭に近藤勇、平隊士に山南敬助、土方歳三、沖田総司、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、野口健司、平間重助、平山五郎。

斎藤一は京で浪士組に合流しており(人を斬ってしまい江戸を離れていたとも言われています)、処静院には来ていません。

処静院から京へ出発した浪士組

伝通院の桜

浪士組の上洛は新暦で3月26日、桜の咲く前か咲き始めか

文久3(1863)年2月8日、明け6つ時(日の出の30分前)に浪士組は処静院に集まります。
処静院を出発し、浪士組取締役の鵜殿 鳩翁(うどの きゅうおう・辞任した松平上総介の後任)の屋敷(現在の御茶ノ水駅近く、千代田区神田駿河台2の三楽病院付近)に寄って、白山通りを通り、板橋宿から中山道を通って京に向かいました。

処静院にあった石柱と案内板(伝通院門前)

処静院にあった石柱と案内板

処静院にあった石柱と案内板

処静院門前に建っていたという、「不許葷酒入門内」と書かれた石柱が、伝通院門前に移されています。

処静院跡の案内板

処静院跡の案内板

葷酒(くんしゅ)とは、辛味や臭味のある野菜(ニラ、ネギ、ニンニク、ラッキョウ、ショウガなど)と酒のことです。
僧の修行の妨げになると言われており、これらを寺の門内に入れることを禁じるという意味の石柱で、あちこちの寺院にありました。

処静院跡の案内板

処静院跡の案内板

処静院跡の案内板

「不許葷酒入門内」の石柱から、山門に向かって左手、墓地の塀沿いに少し進むと、処静院跡の案内板があります。
当時は処静院跡など多くの子院を含めて、全体が伝通院の境内でした。
現在では処静院跡は住宅街のため、案内板はこの墓地沿いに建っています。
地図が載っていて、どのあたりが処静院だったかわかります。

処静院跡地

墓地沿いの案内板からさらに進んだ住宅街が、処静院跡地です。
上の地図の、伝通院の左下の赤丸です。

現在の処静院跡

現在の処静院跡は住宅街

山門の外側、現在住宅街になっているあたりには当時、たくさんの子院が建ち並んでいました。
処静院もそんな子院のひとつでしたが、火災で廃寺になってしまい、現在は残っていません。

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伝通院と清河八郎の墓

浪士組の分裂と江戸帰還

将軍警護のためという名目で作られた浪士組ですが、清河八郎は、尊王攘夷の先鋒として朝廷とつながり、浪士組を朝廷のために使おうとしていました。
文久3(1863)年2月29日、清河八郎は、生麦事件へのイギリスへの賠償問題に関して、横浜にいるイギリス船に攘夷を行おうと、江戸に帰ると宣言します。

将軍上洛の警護のために作られたのに、まだ将軍警護の役を果たしていない、と反発した芹沢組と、近藤勇の試衛館組などが、江戸帰還に反発して京に残ります。
この時残った22名のうち、13名が後に新選組になりました。

清河八郎は残りの浪士組を率いて江戸に戻ります。
横浜居留地の襲撃を計画しましたが、百人単位の浪士を動かせる清河八郎は幕府に危険視されます。
そして、後に京都見廻組となって坂本龍馬の暗殺を行う、佐々木只三郎たちが刺客として送られます。

清河八郎の最期

山岡鉄舟・高橋泥舟の屋敷跡

清河八郎が寄宿した山岡鉄舟・高橋泥舟の屋敷跡

清河八郎はこの頃、山岡鉄舟の家に寄宿していました。
文久3(1863)年4月13日、いつ死んでもおかしくない状況を察していたのか、隣の高橋泥舟宅で白扇に辞世の句をしたためます。
心配した高橋泥舟が出かけるのを止めようとしますが、上山藩士・金子与三郎を横浜居留地焼き討ち計画に誘うために麻布に出かけます。
その帰り道、麻布一の橋を渡る時、清河八郎は佐々木只三郎たちとすれ違います。
頭を下げられて、挨拶のため笠の紐を外そうとしたところで、佐々木只三郎と速見又四郎に斬られて亡くなりました。
享年34歳でした。

辞世の句は次の通り。
「魁(さきがけ)て またさきがけん 死出の山 迷ひはせまじ 皇(すめらぎ)の道」

亡くなった場所は、清河八郎が指示したとも言われているヒュースケン(アメリカ公使ハリスの通訳)殺害現場(麻布中之橋の近く)から500メートルほどの近場でした。

清河八郎の死後、幕府は浪士組を「新徴組」として庄内藩預かりにします。

清河八郎の墓は伝通院に

清河八郎の墓

清河八郎の墓

清河八郎の同志・石坂周造は、清河八郎暗殺の知らせを聞いて一の橋に駕籠を走らせます。
検視のためにまだ清河八郎の遺体が置かれていたので、見張りに「誰の遺体か」と尋ねます。
清河八郎という答えが返ったので、自分の仇であると大声で演技して清河の首を落とし、駆けつけた同志に預けて逃げます。

その夜、石坂周造は清河八郎が寄宿していた山岡鉄舟のところに首を届けます。
山岡鉄舟は首を酒樽に入れ、家の床下に埋めましたが、後に暑さで臭いがしてきたため、庭の木の下に移しました。

清河八郎の墓入口の石柱

清河八郎の墓入口の石柱

慶応2年、処静院住職の細谷琳瑞に頼み、伝通院に清河八郎の墓を建てました。
明治に正4位を贈られたため、墓所入口に「贈正四位清川八郎正明之墓」と書かれた石柱があります。

中央が清河八郎、左が妻・貞女阿連の墓

中央が清河八郎、左が妻・貞女阿連の墓

清河八郎の墓の左隣に、妻・貞女阿連の墓があります。
清河八郎の死の2年前に、清河八郎が幕府関係者を斬り捨てたことで同志とともに捕まり、獄中死しました。
清河八郎は急務三策の建白書で、自分も含めて恩赦になりますが、阿連は既に亡くなっていました。

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伝通院と幕末関係の墓

伝通院住職・細谷琳瑞の墓

細谷琳瑞の墓石には「祥道琳瑞大和上」と書かれています。
浪士組が結成された時の伝通院の塔頭(境内の子院)・処静院の住職
公武合体派であり、水戸の徳川斉昭や藤田東湖と交流がありました。
浪士組取締役となった山岡鉄舟とも交流があり、その縁で浪士組の結成に処静院が使われました。
また、清河八郎が暗殺された後、首を隠していた山岡鉄舟に頼まれて、伝通院に墓碑を作りました。

同じ小石川の播磨坂に住んでいた高橋泥舟(山岡鉄舟の隣家)の家(上の地図左端)から処静院に帰る途中、伝通院近くの三百坂(地図中央右寄り)で刺客に襲われて、翌日の慶応3年10月18日に亡くなります。
享年38歳でした。

澤 宣嘉(さわ のぶよし)の墓

8月18日の政変で長州に追われた6人の公家の一人。
攘夷決定や攘夷親政を提言していました。
慶応3年の王政復古の大号令で許されて、翌年新政府参与、九州鎮撫総督を命じられます。
明治6年9月27日に病死しました(享年39歳)。

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伝通院にある墓

於大(家康の母)の墓(伝通院墓地)

於大の方の墓(家康生母)

於大の方の墓(家康生母)

徳川家康の生母・於大の方(おだいのかた)の墓です。
再婚した夫の久松俊勝が亡くなった後、出家して法名の「傳通院」を名乗りました。
これが「伝通院」の寺の名の由来です。

於大の方の墓案内板

於大の方の墓案内板

再婚後、家康が織田家の人質になっても手紙や見舞いを欠かさなかったと伝わります。

千姫の墓(伝通院墓地)

千姫の墓(家康の孫・豊臣秀頼正室)

千姫の墓(家康の孫・豊臣秀頼正室)

徳川家康の孫で、秀忠とお江の娘、千姫の墓です。
豊臣秀頼に嫁ぎましたが、徳川家と豊臣家の戦い「大阪夏の陣」では、家康の命令で大阪城から救出されます。
幕臣の本多忠刻と再婚し、忠刻の死後は出家して「天樹院」を名乗っています。

本理院(孝子・家光の正室)の墓(伝通院墓地)

徳川家光の正室、鷹司孝子の墓もあります。
関白左大臣・鷹司信房卿の娘でした。

杉浦重剛の墓

杉浦重剛は近江国膳所藩士で、明治に英国に留学し、帰国後東京英語学校を作ります。
昭和天皇の御進講役で、国粋主義を主張していました。
山縣有朋が、昭和天皇の妃に内定していた久邇宮良子女王(後の香淳皇后)の身内に色覚異常があるとして婚約辞退を迫った時、山縣有朋に対抗した一人です。

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伝通院の御朱印と御朱印帳

伝通院の御朱印をいただく場所

本堂右手の書院でいただけます。

伝通院の御朱印

伝通院の本尊御朱印伝通院の聖観世音御朱印

伝通院は江戸三十三観音の12番札所です。
御朱印は、聖観世音のものと、本尊の阿弥陀如来の2種類があります。

伝通院でいただいたお供物

伝通院でいただいたお供物

御朱印と一緒に、葵のご紋のついたおせんべい(お供物)をいただけました。

伝通院の御朱印帳

裏表紙に金で葵のご紋に「無量山傳通院」の文字が入ったオリジナル御朱印帳があります。
サイズは寺に多い大判サイズ(12.5cm × 18.5cm)です。

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伝通院のお守り

伝通院の観音堂(右側でお守り頒布)

伝通院の観音堂(右側でお守り頒布)

伝通院のお守りは、本堂左側、墓地入口近くの観音堂の右側面の窓口で各種頒布していました。

伝通院の境内その他の見どころ

境内地図は伝通院公式ホームページで。

山門

伝通院の山門

伝通院の山門

太平洋戦争で焼けてしまいましたが、平成24(2012)年に再建されたものです。

本堂

伝通院の桜と本堂

伝通院の本堂

本尊の阿弥陀如来が安置されています。
本堂は太平洋戦争で焼けて昭和24年に再建された後、昭和63年に新本堂として建てられたものです。

観音堂

伝通院の観音堂(右側でお守り頒布)

伝通院の観音堂(右側でお守り頒布)

江戸三十三観音の一つ、十一面観音が祀られています。
観音堂は平成11年に建てられたものです。
側面でお守りや墓参り用の線香や、墓所の有名な墓を載せた地図などが売っています。

鐘楼

伝通院の鐘楼(桜の向こう中央右手)

伝通院の鐘楼(桜の向こう中央右手)

浪越徳治郎の指塚

伝通院の指塚

伝通院の指塚

指圧療法の創始者、浪越徳治郎が生前寄贈した像です。
浪越徳治郎の墓も伝通院墓地にあります。
また、伝通院の隣に、浪越徳治郎が作った日本指圧専門学校があります。

柴田錬三郎の墓

戦国・幕末の時代小説で知られる柴田錬三郎の墓は、於大の方の墓の東側の区画にあります。

佐藤春夫の墓

明治~昭和の詩人・作家の佐藤春夫の墓は、清河八郎の墓の近くにあります。
太宰治が師事したこともあり、芥川賞選考委員時代、芥川賞受賞を願う長さ4メートルもある大ボリュームの手紙を太宰治から受け取ったことで有名です。

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伝通院と縁ある文化人・有名人

夏目漱石

夏目漱石は明治26年、伝通院のそばの法蔵院に間借りしていました。
そのため、代表作の「こころ」「それから」に、伝通院が何度も登場しています。
(夏目漱石は他に、近藤勇や土方歳三が泊まった新福寺にも間借りした時期があります)

永井荷風

永井荷風は伝通院の近くで生まれ育ちました。
随筆「伝通院」では、「パリにノートルダムがあるように、小石川にも伝通院がある」と書いています。

浅井忠

明治の洋画家・浅井忠は、洋画の発展や普及を目指した「明治美術会」「明治美術学校」を作りました。
明治25年以降、明治美術学校小石川伝通院の裏手、「舞姫通り」の洋館に移転しています。

伝通院の歴史

伝通院の創建

於大の方の墓(家康生母)

於大の方の墓(家康生母)

室町時代の応永22(1415)年、浄土宗第七祖(浄土宗の7代目のトップ)了誉上人が創建しました。
当時は小さな草庵で、「無量山寿経寺」といいました。

その200年後、慶長7(1602)年8月29日に、徳川家康の生母・於大の方が亡くなり、伝通院前身の寿経寺を菩提寺とします。
於大の方の法名が「傳通院殿蓉誉光岳智光大禅定尼」といい、そこから取って寿経寺が「傳通院」と呼ばれるようになりました。

その後、家光の長男・亀松が葬られ、徳川家の女性や子供の菩提寺になりました。
江戸幕府の庇護を受けて伝通院は発展していきます。

伝通院と明暦の大火

伝通院の山門

伝通院の山門。明暦の大火の2回目出火はこの外の宿所から

明暦の大火は明暦3(1657)年1月18日~20日に起きた大火で、江戸三大大火と呼ばれます。
3回に渡って出火していますが、そのうち2回目の出火が伝通院表門の外にあった大番衆与力の宿所からでした。

この2回目の出火で伝通院も焼け、江戸城も西の丸以外は本丸・二の丸・三の丸・天守がすべて燃えてしまいました。
江戸城の天守はこれ以降、再建されることはありませんでした。

幕末の伝通院

処静院にあった石柱と案内板

処静院にあった石柱と案内板

伝通院の塔頭(境内の子院)・処静院の住職の細谷琳瑞が攘夷のために活動しており、志士や山岡鉄舟・高橋泥舟など、幕末の重要人物と交流を持っていました。
このため、山岡鉄舟が関わった浪士組の集合地にもなり、清河八郎の墓所にもなりました。

慶応3年10月18日には、住職の細谷琳瑞も公武合体の活動をしたことで暗殺されます。

さらに、鳥羽伏見の敗戦後、彰義隊が発足する時も、処静院で伴門五郎・竹沢市五郎・須永於莵之輔たちが渋沢成一郎に、代表になるよう説得しています。

明治の伝通院

徳川家菩提寺として発展してきましたが、明治になって徳川家の庇護を失ったため、たくさん建ち並んでいた塔頭(子院)も立ち行かなくなり、減っていきます。
処静院も火災にあった後、再建されず廃寺となりました。

一方で夏目漱石や永井荷風など、文人たちに愛されて文学にその名を残しています。

伝通院と空襲

昭和20(1945)年5月25日、太平洋戦争末期の空襲で、伝通院は墓以外すべて焼けてしまいます。
小石川一帯が焼野原になりました。

伝通院の再建

昭和24(1949)年に本堂が再建されます。
昭和63(1988)年、さらに改築されます。
平成24(2012)年、山門が再建されました。

伝通院の御利益

本堂に祀られる本尊・阿弥陀如来は、人が亡くなった時に極楽に連れて行ってくれる、死後の御利益を持つと信じられている仏です。
観音堂の聖観世音は、逆に現世ご利益の仏で、七難を免れると言われ、厄除け・病気除け・災害除けの仏として信仰されています。

伝通院のイベント・季節の花

伝通院と季節の花や木

伝通院の桜

伝通院の桜

本数は多くはありませんが、2月には梅、3月下旬~4月には桜が咲いて、風情を楽しめます。
11月中旬から12月上旬には、紅葉も鮮やかです。

伝通院と朝顔市・ほおずき市

7月なかばには、伝通院で朝顔市が開かれます。
ほおずき市は伝通院ではなく、すぐ近くの源覚寺(こんにゃくえんま)で開かれるのでご注意。

伝通院の写経や各種教室

写経会が毎月第一土曜(1・8月は休み)に開かれ、誰でも参加できます。
他に、論語塾や俳句会、寄席やお寺ヨガなど、さまざまな教室が開かれています。
日時などの詳細は伝通院の公式サイトで。

伝通院の初詣

除夜の鐘をつかせてくれるため、大晦日から元旦の夜中にかけては大混雑します。
逆に正月の昼間には、そこまで混雑しないようです。

伝通院の節分・花まつり

節分や花まつりには、特別なことはしていないようです。
節分は、かつて境内社だったものの今は独立した神社の、沢蔵司(たくぞうす)稲荷で行われています。

伝通院の三盛祭

三盛祭は伝通院前の商店街の縁日です。
6月頃行われています。

伝通院の夏祭り・盆踊り

商店街の主催で、伝通院境内で夏まつりと盆踊りが行われています。
大規模なものではありませんが、7月末頃行われています。

伝通院周辺の新選組ゆかりの地・観光スポット

山岡鉄舟・高橋泥舟居宅跡|案内板

浪士組結成前の1月、浪士組に参加を表明した近藤勇が訪れた場所です。
清河八郎が暗殺される前に寄宿していた場所でもあり、清河八郎の首を隠した場所でもあります。
処静院住職の細谷琳瑞が訪ねてきて、帰り道で殺されたという因縁もあります。

新福寺

隊士募集に江戸に帰った時に近藤勇が一時宿泊、土方歳三も利用したと思われる寺です。

永倉新八居住地(セブンイレブン近辺とジョナサン近辺の2か所)

永倉新八が明治に住んだ場所で、すぐ近くに2か所あります。
家の前の白山通りは、浪士組が上洛する時通った道でもあります。

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