近藤勇墓所・新選組隊士慰霊碑は、東京都北区(板橋駅前)にある慰霊碑です。
永倉新八が明治9年に建立しました。
寿徳寺の境外墓地で、同じ敷地に永倉新八が分骨された墓もあります。
新選組隊士慰霊碑には、墓が判明しておらず墓参りしにくい新選組隊士の名や、近藤勇が暗殺させた芹沢鴨・伊東甲子太郎・藤堂平助などの名も刻まれており、多くの新選組隊士の冥福を祈ることができる場になっています。
近藤勇墓所・新選組隊士慰霊碑のアクセス・基本情報
近藤勇墓所・新選組隊士慰霊碑のアクセス・基本情報
住所 | 東京都北区滝野川7丁目8−10 |
アクセス | JR板橋駅から徒歩3分 都営三田線新板橋駅から徒歩6分 |
駐車場 | 三井のリパーク滝野川6丁目第5(30分400円)など |
関連サイト | 「近藤勇と新選組隊士供養塔」北区飛鳥山博物館 |
板橋駅前近藤勇墓所・新選組隊士慰霊碑の地図
現在の近藤勇墓所・新選組隊士慰霊碑(寿徳寺境外墓地)
近藤勇・土方歳三墓所・新選組隊士慰霊碑
「近藤勇墓所」と書かれた入口を入っていくと、奥にひときわ高い慰霊碑があります。
明治7年に、官軍に抵抗した側の死者を祀ることが許され、それを受けて明治9年に作られました。
生き延びた永倉新八が発起人になっていて、書は松本良順のものです。
同じく生き延びた斎藤一がどう関与したかは不明なのですが、何か協力はしていたのではと言われています。
正面に「近藤勇宜昌 土方歳三義豊 之墓」と刻まれています。
近藤勇の名「昌宜(まさよし)」の字が何故か逆になっていますが、何故そうなったかは不明です。
裏手の水場から見上げると、碑の裏側には
「近藤 明治元年立つ四月二十五日」
「土方 明治二年巳五月十一日」
と刻まれていて、下部には
「発 旧新選組
起 長倉新八改
人 杉村義衛(永倉新八の明治になってからの名)」
と刻まれていました。
が、現在は「義」の文字の途中から石の表面が剥離してしまい、「衛」の字はほとんど読み取れません。
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新選組隊士慰霊碑の側面に刻まれた名前
側面には新選組隊士のそれまでの死者の名が刻まれています。
風化が激しく、高い位置のものは目を近づけることもできないので、写真を撮ってパソコンの大画面で拡大することでようやく読み取れる名前も多いです。
見つけにくいので、主な隊士の名前の位置を上げておきます。(正面から向かっての位置)
※本来の名前と違う表記で刻まれているものもあります。
【向かって右側面一段目】
井上源三郎、原田左之助、山崎丞、宮川信吉
【向かって右側面八段目】
大石鍬次郎
【向かって左側面一段目】
芹沢鴨、新見錦、山南敬介、沖田総司、平山五郎、野口健治、伊藤甲子太郎、藤堂平介
【向かって左側面三段目】
武田観柳斎、大石鍬次郎(重複)、芳賀宜動
【向かって左側面五段目】
横倉甚五郎
粛清された芹沢鴨や伊東甲子太郎派の名もあります。
(芹沢鴨の名は風化が激しく、高解像度の写真を拡大してかろうじて芹の字らしいとわかる程度です)
また、芳賀宜動は新選組脱退後に永倉新八が組んで靖兵隊を作った友で、新選組隊士ではありません。
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近藤勇の墓石
墓石と言われているのはこの境内に2つあり、1つが供養塔の右側にある石で、「勇生院頭光放運居士」という戒名と「近藤勇宜昌 慶応四戊辰年四月二十五日」と命日が刻まれています。(昌の字と宜の字が逆になっています)
戒名は寿徳寺が出したもので、会津天寧寺や龍源寺にある近藤勇の墓の戒名とは異なります。
裏面に寿徳寺の名と、明治四十四年という日付が刻まれているのですが、風化して判読しにくくなっています。
近藤勇最期の地に明治四十四年に建てられた後、昭和の墓地改修後にここに移されたのではと言われています。
永倉新八の墓
永倉新八の墓は、供養塔の前を下がって左側にあります。
永倉新八は杉村家に婿養子に入って北海道小樽(おたる)市で暮らし、大正4年1月5日に、77歳で亡くなります。
墓は小樽市中央墓地、札幌市里塚霊園、そしてここ板橋駅前の墓と分骨されています。
板橋駅前のこの墓は、昭和4年、この墓所の大改修に合わせて、長男・杉村義太郎が建立したものです。
正面の「新選組永倉新八之墓」の書は、杉村義太郎とつながりのあった蜂須賀正韶侯爵(阿波徳島藩最後の藩主の長男で徳川家と縁戚)が書いています。
近藤勇の銅像など
ほかに、近藤勇の銅像や、近藤勇埋葬当時の墓石、肖像画の彫られた碑、近藤勇・土方歳三・永倉信八の肖像が張られた掲示板などがあります。
失われた新選組交流ノート
供養塔と銅像の間を少し奥に行ったところに、交流ノートを入れる箱が設置されていました。
しかし、2018年に行った時、中身が空になっていて、引き戸もなくなっていました。
お寺で保管しているのかと思っていたのですが、寿徳寺に確認した複数の方のネット情報で、交流ノートは2018年に盗難され、その後ガラス戸も別に盗まれたそうです。
残念です。
現在は、空の箱だけが立っています。
毎年4月の近藤勇と新選組諸隊士供養祭
この境外墓地を管理する寿徳寺が、毎年4月25日かその直前の日曜に、供養祭を開いています。
2019年は4/21(日)の11~12時です。
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近藤勇の処刑とその後
近藤勇が囚われるまで
流山で幕臣「大久保大和」として出頭した近藤勇は、越谷宿を経て板橋宿に行くよう言われます。
板橋宿本陣で、新選組が暗殺した伊東甲子太郎の弟子・元新選組で御陵衛士となった加納鷲雄と、御陵衛士の清原清とに会わされ、近藤勇だと判明します。
その後は脇本陣の豊田家で幽閉されます。
幕府から切り捨てられる近藤勇
流山を脱出した土方歳三が、近藤勇を助命しようと江戸で工作した結果、幕府軍事方の松濤権之丞(まつなみ ごんのじょう)から板橋に、
「不慮の事件(流山での撃ち合いなど)があったが、(大久保大和の隊は)勝海舟の命でやっていたことで新政府軍に異心はない」
という口添えの手紙が送られました。
しかし、既に大久保大和が近藤勇と判明していたので、手紙を持ってきた新選組隊士・相馬主計(そうまかずえ)も囚われてしまいます。
江戸城無血開城と、徳川慶喜の助命に向けて動いている時に、近藤勇の件で新政府軍を刺激することはできない。
そういう判断だったのでしょうか、幕府側は、「大久保大和なる人物は徳川家中には存在せず」「近藤勇は徳川家との関係はない」と新政府軍に伝えます。
近藤勇は幕府から切り捨てられる形になりました。
新政府軍の土佐藩側が、徳川家の関与を近藤勇の口から聞こうとします。
が、近藤勇は自分の回答次第で徳川家に罪が着せられると察したのか、「そのようなことはない」と答えるようになります。
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近藤勇の処刑まで
坂本龍馬の暗殺が新選組の仕業と思われていたため、新政府軍の土佐藩側は、すぐ処刑することを主張します。
薩摩藩側は、京都に連行して裁判すべきと主張します。
結局、新政府軍が板橋を撤退するにあたり、生きた近藤勇を京に連れて行くか、首にして運ぶかが議論されました。
そして、4月25日、板橋駅前にあった「馬捨て場」(現在の供養塔の斜め向かいあたりの区画)で近藤勇は斬首されます。
幕府側が「近藤勇とは関係ない」という回答を出していたこともあり、罪状は、「勝手に徳川家の家臣を名乗って官軍に手向かいした」という、新選組の存在自体をすべて否定するものでした。
近藤勇は幕府から切り捨てられたことを理解しながら、徳川家に罪を着せられないよう、かばって死に向かったと考えられています。
板橋での近藤勇については、こちらの本に詳しく書いてありました。
近藤勇の処刑後
近藤勇の処刑後、首は京に送られて晒されます。
体は、一度最期の地となった馬捨て場(現在の供養塔の斜め向かいあたりの区画)に埋葬されます。
が、恨みを持つ者に掘り出されるのを警戒し、その夜、現在供養塔が立つあたりに埋葬され直します。
近藤勇の甥・勇五郎たちが、3日後に馬捨て場にいた者に金を握らせ、埋葬された場所(現在の供養塔のあたり)を聞き出し、夜闇に紛れて掘り出します。
京で負った肩の銃創から、これが近藤勇の遺体だということになり、棺桶に入れて駕籠に乗せます。
そして夜を徹して故郷の菩提寺・三鷹の龍源寺まで運び、埋葬しました。
板橋でも夜を徹して見張っていたため、掘り出せなかったはずという説もあり、現在近藤勇の体については、板橋節と龍源寺説があります。
どちらからも首のない遺体が出ています。
詳しくはこちらの龍源寺の記事で書いています。
どちらの説でも、板橋のお墓は、永倉信八や板橋の方々の想いのこもった大切なお墓です。
龍源寺も、ご家族の想いのこもった大切なお墓です。
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近藤勇墓所・新選組隊士慰霊碑周辺の新選組ゆかりの地
近藤勇最期の地付近(何もなし)
当時馬捨て場と呼ばれていた、近藤勇最期の地。
寿徳寺の土地で、千川上水が現在の道路付近を流れていました。
案内板も何もありません。
しゃとう
墓所の隣の、昔ながらの喫茶店。
「イサミあんみつ」があります。
板橋駅・新板橋駅駅スタンプ
JR板橋駅の改札外と、三田線新板橋駅の改札内(A3出口に向かう改札内)に、駅スタンプが設置されています。
JR板橋駅のものは、供養塔と「近藤勇の墓」という文字が描かれたもの。
都営三田線の新板橋駅のものは、供養塔の敷地にある近藤勇の銅像がデザインされています。
台紙を用意しておけば誰でも押せます。
寿徳寺
供養塔のある場所を境外墓地として管理している寺。
4月に近藤勇と諸隊士の供養も行っています。
供養塔から徒歩12分ほど。御朱印あり。