平尾脇本陣の豊田家屋敷跡は、近藤勇が板橋で捕まった後、幽閉されていた場所です。
豊田家孫娘との交流や、見張り役(後の処刑役)横倉喜三次との交流がありました。
ここでは、平尾脇本陣・豊田家屋敷跡と近藤勇について紹介します。
平尾脇本陣・豊田家屋敷跡のアクセスと基本情報
平尾脇本陣・豊田家屋敷跡のアクセスと基本情報
住所 | 板橋区板橋3-15 |
アクセス | 都営三田線板橋区役所前駅から徒歩5分 |
駐車場 | NBパーキング板橋第5 |
関連サイト | 平尾宿脇本陣跡(板橋区観光協会ぶらり板橋) |
平尾脇本陣・豊田家屋敷跡の地図
平尾脇本陣・豊田家屋敷跡の現在
現在は建物はなく、マンションが建っています。
マンションの下に、「板橋宿平尾町脇本陣」と刻まれた石碑と、案内板があります。
ここから向こうの道路の方まで一帯、109坪の広さがあったのが、脇本陣をつとめた豊田市右衛門の屋敷でした。
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近藤勇と平尾脇本陣・豊田家屋敷
平尾脇本陣に幽閉された近藤勇
ここから徒歩10分ほどの板橋宿本陣で、近藤勇は正体を見破られて捕まります。
そのあたりはこちらの板橋宿本陣の記事に書いています。
4月4日に捕まった近藤勇は、処刑間近の23日までここ、平尾脇本陣に幽閉されました。(期間については諸説あり)
足枷をはめられて牢に入り、横倉喜三次(よこくらきそうじ)が見張りにつけられます。
一緒に捕まった野村理三郎と、助命の手紙を届けて捕まった相馬主計とは別々にされました。
取り調べの時には応接所(白洲に筵《むしろ》を敷いた場所)に引き出され、それ以外の時は室内にいました。
横倉喜三次の遺稿では、昼夜とも厳重に見張られていたとなっています。
豊田家の子孫から赤間倭子氏が聞き書きしたところでは、元隊士や幕臣とも面会し、元隊士には飯森旅籠(めしもりはたご)に女を買いに行けるよう金をやったなど、比較的自由に過ごしていたと伝わっており、どちらが真実かはわからない状態です。
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近藤勇と豊田家孫娘の交流
豊田家当主・豊田市右衛門には、7歳になる孫娘のとみがいました。
近藤勇の娘・たまと同じ年のとみが、娘と重なる部分もあったのでしょうか。
近藤勇はとみを可愛がり、膝に乗せて子守歌を歌ったと伝わります。
とみの祖父、脇本陣当主の豊田市右衛門は、近藤勇の処刑後、いち早く位牌を作って菩提を弔いました。
憎しみを買っていた近藤勇を弔うことは、新政府軍の怒りを買うかもしれず、危険なことでしたが、それを承知で弔っています。
とみも、昭和21年に亡くなるまで、月命日の25日には必ず、現在板橋駅前にある近藤勇の墓にお参りしていたと伝わっています。
近藤勇と見張り役・横倉喜三次の交流
近藤勇と横倉喜三次の交流
見張り役につけられた横倉喜三次(よこくらきそうじ)は、旗本・岡田将監(おかだしょうげん)の家臣で、神道無念流と小野一刀流の達人でした。
時流を読んで、主人の岡田将監が新政府軍に恭順するよう進言し、配下の横倉喜三次もともに、東山道総督府に組み込まれました。
横倉喜三次は見張り役を申しつけられ、昼夜問わず近藤勇の牢の外にいることが多くなります。
近藤勇は12月に京都で御陵衛士から受けた肩の傷がずっと痛んでおり、横倉喜三次はそれを気遣いました。
近藤勇と横倉喜三次の主君(主筋の岡田家は十歳の息子に家督が譲られたばかりでした)についての話をすることもありました。
処刑当日に、石山家に移っていた近藤勇と横倉喜三次が面会した時のことはこちらの記事に書いています。
近藤勇処刑後の横倉喜三次
横倉喜三次は、近藤勇の処刑人をつとめた賞金を、すべて故郷の揖斐(いび・岐阜県)にいる妻に手紙とともに送ります。
そして横倉喜三次の指示で、その賞金をすべて使って、揖斐で「大和守」の葬儀が執り行われます。
これは「大久保大和守剛」とも名乗ることのあった「大久保大和」こと近藤勇の葬儀でした。
近藤勇は幕府から切り捨てられたことで、新政府軍から「勝手に幕臣を名乗って刃向かった」という不名誉な罪状を着せられて処刑されました。
が、横倉喜三次の指示で行われた葬儀は、幕臣としての身分にふさわしく、四つの寺の僧侶を招いた大規模なものでした。
明治政府が賊軍の慰霊を認めたのは明治8年。
それより前に、危険を知りながら、横倉喜三次は近藤勇の盛大な葬儀を行ったのでした。
後に、横倉喜三次は「岡田家維新始末」という手記の中で、近藤勇に手を下すのに忍びなかった、と述べています。
近藤勇の命日には必ず、近藤勇の首を落とした家宝の佩刀・二王清綱を仏前に備えて弔っていたと伝わってます。
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近藤勇の助命を願った薩摩藩士・有馬藤太
流山で近藤勇に出頭を促した薩摩藩士・有馬藤太は、近藤勇の態度に感銘を受け、助命を願っていました。
有馬藤太はあちこちに出向いて戦っていましたが、4月14日に板橋宿に戻り、豊田家にいた近藤勇と面会します。
この時、有馬藤太は近藤勇に、きっと助命すると伝えていました。
しかし、その後4月22日に、有馬藤太は宇都宮の壬生安塚の戦いで重傷を負い、横浜の病院に搬送されてしばらく動けませんでした。
退院後、知らない間に近藤勇が処刑されていたことを知り、新政府軍の香川敬三(陸援隊士で、近藤勇を坂本龍馬の仇として処刑を求めていた)を強く非難し、生涯嫌っていたと伝わります。
移送される近藤勇
近藤勇は処刑前日、4月24日に、処刑された場所の近く、現在の北区滝野川の石山亀吉邸に移されます。
そこで入浴し、読む物を求めて石山家にあった絵草紙を借りるなど、穏やかな一夜を過ごしました。
そして翌25日、駕籠で刑場に護送されました。
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平尾宿はこんな場所
板橋宿には、上宿(かみしゅく)、仲宿(なかじゅく)、平尾宿(ひらおしゅく・下宿とも呼んだ)の3つの宿場がありました。
平尾宿は、板橋宿の中でも一番江戸に近い側にある宿場です。
近藤勇の墓がある場所は、江戸から来て平尾宿に入る前の村はずれに当たります。
平尾宿と仲宿の境目は、観明寺のあたりにありました。
文政4年には、江戸での興行に向かっていたペルシャ産のラクダが、平尾宿脇本陣の奥庭に引き入れられ、大勢の人が集まってきたという記録があります。
平尾宿には飯盛旅籠(めしもりはたご)という、食事を出す宿で給仕の女性を買う旅館が多くありました。
板橋宿は江戸から近かったので、江戸から通ってきたり、見送りと称してやって来て飯盛旅籠を使う客も多かったようです。
飯盛り女(宿場女郎)が公称150人いて、賑わっていました。
明治になると、板橋宿の宿場としての機能は、大火や鉄道の影響などですたれます。
代わりに、平尾宿にあった飯森旅籠街が遊郭として、太平洋戦争中まで栄えました。
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平尾脇本陣・豊田家屋敷跡周辺の新選組ゆかりの観光スポット
板橋宿本陣跡
近藤勇が最初に板橋に来て正体を見破られた場所。
新月堂
板橋宿本陣跡近く。「誠のどら焼」と、当時の役人が近藤勇の処刑について報告している手紙の写真の展示がある。
近藤勇墓所
板橋駅前。近藤勇・土方歳三の名が正面、新選組隊士の名が側面に刻まれている。
手前に永倉新八の墓もある。
しゃとう
近藤勇墓所の隣。
「イサミあんみつ」がある。