東京都北区・板橋区の新撰組観光地・ゆかりの地

板橋宿本陣跡(近藤勇が正体を見破られた地)|板橋区の新選組ゆかりの地観光スポット

更新日:

板橋宿本陣跡

板橋宿本陣跡

板橋宿(いたばししゅく)本陣跡は、「大久保大和」の名で新政府軍に出頭した近藤勇が、元新選組隊士(御陵衛士)の加納鷲雄・清原清に正体を見破られた場所です。
板橋宿の本陣に新政府軍が滞在し、東山道総督府本陣としていました。
板橋宿本陣は明治に火事で焼け、現在は碑と案内板が、商店街の一角に立っています。
ここでは、板橋宿本陣跡と近藤勇について紹介します。

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板橋宿本陣跡のアクセス・基本情報

板橋宿本陣跡のアクセス・基本情報

住所

板橋区仲宿47-10

アクセス

都営三田線板橋区役所前駅から徒歩6分

駐車場

リパーク板橋仲宿第5

関連サイト

板橋宿本陣跡(板橋区観光協会)

板橋宿本陣跡の地図

板橋宿本陣跡の現在

板橋宿の仲宿商店街にある碑

板橋宿本陣跡

板橋宿本陣跡案内板

板橋区の仲宿商店街、「ライフ」というスーパーの隣の建物前に、板橋宿本陣跡の碑と案内板があります。
本陣は飯田新左衛門家でしたが、建物は明治に火事で焼けてしまい、現存していません。
碑と案内板と「ライフ」がある区画あたりが全部、板橋宿本陣でした。

新月堂

新月堂

少し行った向かい側(ライフの斜め向かいあたり)には、「誠のどら焼き」を売っている「新月堂」があります。

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近藤勇と板橋宿本陣

越谷から板橋に出頭した近藤勇

近藤勇陣屋跡

近藤勇が出頭を決めた流山の本陣跡

近藤勇は「大久保大和」を名乗って、流山から越谷宿(こしがやじゅく)に出頭します。
越谷宿にいた彦根藩士が、京で近藤勇の顔を見たことがあり、新政府軍側で「大久保大和は近藤勇ではないか」という疑いがひそかに持たれます。
そこで、新政府軍の本部、「東山道(とうさんどう)総督府本陣」がその時置かれていた、板橋宿に向かうことになります。
4月4日、流山での出頭翌日の午後8時頃、近藤勇たちは板橋宿に到着します。
近藤勇は板橋宿の本陣の一室に案内されます。

加納鷲雄・清原清が近藤勇だと確認

板橋宿本陣跡

板橋宿本陣跡

薩摩藩の大軍監(軍事の監督役)だった平田九十郎の「従軍実録」という手記や、のちに加納鷲雄(かのうわしお)が「史談会速記録」で語った内容で、この時のことがわかっています。

薩摩藩の大軍監・平田九十郎は、板橋まで近藤勇を連れてきた上田楠次(うえだくすじ)と会い、「自分が連れてきた大久保大和は近藤勇の疑いがある。薩摩藩にいる元新選組の二人を呼んで、近藤勇かどうか見極めてほしい」と頼まれます。
そこで、平田九十郎が薩摩の本営に行き、加納鷲雄と清原清を連れてきます。
加納鷲雄と清原清は元新選組隊士ですが、伊東甲子太郎と一緒に御陵衛士となり、伊東甲子太郎が新選組に暗殺された後は薩摩藩に身を寄せていました。

平田九十郎が近藤勇と対談する間に、隣室の障子の穴から、加納鷲雄と清原清がのぞきます。
確かに近藤勇だったので、加納鷲雄たちが近藤勇のいる部屋に入り、「大久保大和、改めて近藤勇」と声をかけました。
近藤勇はここで、自分が近藤勇だと認めて捕縛されました。
近藤勇に付き添っていた新選組隊士・野村利三郎も捕まります。

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加納鷲雄

加納鷲雄は、通称を加納道之助と言います。
北辰一刀流で、伊東甲子太郎に師事していました。
元治元(1864)年、伊東甲子太郎とともに新選組に入ります。

慶応3(1867)年3月、伊東甲子太郎とともに新選組を脱退し、御陵衛士となります。
慶応3(1867)年11月、油小路事件で伊東甲子太郎が暗殺されます。
遺体を引き取りにいった御陵衛士7名の中に、加納鷲雄もいました。
新選組の待ち伏せで、遺体を引き取りに行った御陵衛士が襲われ、藤堂平助を含む御陵衛士3名が亡くなります。
加納鷲雄は逃げ延び、薩摩藩邸にかくまわれます。

慶応3(1867)年12月、加納鷲雄は御陵衛士の篠原泰之進たちとともに、近藤勇を京の伏見街道で襲撃し、肩に傷を負わせます。
そして慶応4(1868)年4月、板橋宿本陣にて、「大久保大和」が近藤勇だと証言します。

明治維新後は「加納通廣」を名乗り、明治35年に64歳で亡くなりました。
墓は青山霊園にあります。

清原清

慶応元(1865)年、土方歳三の江戸での隊士募集で新選組に入隊します。
その後離隊して、御陵衛士となった伊東甲子太郎たちと合流し、武川直枝と改名します。
伊東甲子太郎暗殺後、加納鷲雄とともに薩摩藩に身を寄せ、板橋で「大久保大和」が近藤勇だと証言します。

新政府軍側として戦い、会津・白河口の戦いで、「近藤局長の仇」として新選組に命を狙われ、稲荷山にて戦死します。
墓は白河市の鎮護神山にある、薩摩藩戦死者の墓と、京の戒光寺(伊東甲子太郎と御陵衛士の墓)のものがあります。

すれ違った土方歳三の助命工作

勝海舟邸跡

土方歳三が近藤勇の助命工作に訪れた勝海舟邸跡

流山で出頭した近藤勇を助けるため、土方歳三は江戸で勝海舟に会うなどして手を回していました。
土方歳三の助命工作の結果、幕府の軍事方・松濤権之丞(まつなみごんのじょう)からの、「(流山でいろいろあった大久保大和の隊は)勝海舟の命でやっていただけで、新政府軍に異心はない」という手紙を、新選組隊士・相馬主計が届けにきます。
しかし、大久保大和が近藤勇と暴露され、相馬主計も捕まってしまいました。

平尾脇本陣跡

近藤勇が幽閉された平尾脇本陣跡

近藤勇はこの後、ここから徒歩10分ほどの場所にある板橋宿の脇本陣、平尾の豊田市右衛門邸で幽閉されます。
そして、土佐藩と薩摩藩の間で、近藤勇の処遇を巡って議論が行われます。

その後のことは、こちらの近藤勇墓所の記事で書いています。

新政府軍が板橋宿にいた理由

江戸城総攻撃のために江戸に向かう新政府軍は、八王子や板橋に陣取り、江戸包囲網を固めます。
天璋院篤姫や和宮の薩摩藩・朝廷への働きかけ、幕府の交渉などにより、江戸城総攻撃には待ったがかかり、西郷隆盛と勝海舟の会談になります。

新政府軍は江戸を包囲するように、板橋宿にとどまったまま交渉が終わるのを待ちました。
そこで新政府軍は、板橋宿本陣に「東山道総督府本陣」を置き、交渉が終わった後も、情勢が落ち着くまでは板橋にとどまることになります。

徳川慶喜の助命は通ったものの、処刑すべきという意見も新政府軍内には多くありました。
4月11日に江戸城明け渡しを控え、幕府側としては絶対に新政府軍を刺激するわけにはいかない時期でした。
そんな張り詰めた情勢の中、4月4日、大久保大和を名乗った近藤勇が出頭してくることになります。

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板橋宿の歴史

板橋宿の由来

板橋宿本陣跡から北に行ったところに、石神井川(しゃくじいがわ)が流れています。
石神井川にかかる橋の名が「板橋」で、板橋という地名の由来です。

板橋宿の成り立ち

板橋宿仲宿

板橋宿仲宿

板橋宿は、江戸四宿(内藤新宿、品川宿、千住宿、板橋宿)の一つです。
板橋宿には、京に近い側から上宿(かみしゅく)、仲宿(なかじゅく)、平尾宿(ひらおしゅく・下宿とも呼んだ)の3つの宿場がありました。
その中心地が仲宿の、本陣跡があったあたりで、問屋場や運賃を決める役所などもありました。
上宿には木賃宿(商人の宿)、馬喰宿(馬子の宿)などがあり、江戸に近い平尾宿には飯盛旅籠(客を取る女性がいる旅籠)がありました。
江戸から近すぎるため、板橋宿は宿を取るよりも休憩に使われていました。
そのため、木賃宿などより飯森旅籠が賑わっていたようです。
当時の賑わいは、歌川広重の浮世絵や、「江戸名所図会」にも描き残されています。

板橋宿は南北に長く、2.2キロほど広がっていました。
近藤勇の墓所があるあたりは、江戸から平尾宿に入る手前の村外れでした。

板橋宿は中山道の、江戸日本橋を出てから一番目の宿場でした。
さらに、脇街道の川越街道の起点にもなっていました。
板橋宿に隣接して、加賀藩下屋敷がありました。
現在の新板橋駅のあたりから加賀1~2丁目に広がる広大な屋敷でした。

名所としては、縁切りの御利益が信じられていた縁切榎(えんきりえのき)や、馬つなぎ場になっていた遍照寺(へんしょうじ)、宇喜多秀家の墓がある東光寺、地名の由来になった板橋などがあります。

皇女和宮の板橋宿宿泊

皇女和宮が徳川家茂に降嫁する時、中山道を通ってきて、この板橋宿に泊まりました。
縁切りになると信じられていた縁切り榎は避けて通ったと伝わります。
板橋宿本陣から50メートルほどの、名主飯田家(総本家)に宿泊しています。

また、板橋には有吉佐和子の小説「和宮様御留」(かずのみやさまおとめ)を元にした、皇女和宮が板橋で自殺し、替え玉の女性が徳川家に嫁いだという都市伝説もあります。

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板橋宿本陣跡周辺の新選組ゆかりの地観光スポット

新月堂(誠のどら焼き)

新月堂板橋宿本陣跡隣の「ライフ」の斜め向かいあたりにある和菓子屋さん。
「誠のどら焼」があり、店内左手に歴史好きの御主人が集めた新選組グッズや、役人の「近藤勇が処刑された」という報告の手紙の写真などがミニ展示されています。

 

平尾脇本陣豊田家跡(碑と案内板)

板橋宿本陣で正体を見破られた近藤勇が、その後幽閉された場所の跡。
現在はマンションの前に碑と案内板があるだけです。
豊田家の孫娘との交流や、見張り役(のちに処刑役)となった横倉喜三次(よこくらきそうじ)との交流がありました。

近藤勇墓所

永倉新八が建てた、板橋駅前の近藤勇の墓所。
近藤勇・土方歳三の名のほか、側面に新選組隊士の名が刻まれ、多くの隊士の冥福を祈れる場です。
永倉新八自身も分骨され、横の方に墓があります。

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