港区芝の「勝林山金地院」には、近藤勇が建てた養父・天然理心流3代目、近藤周助の墓があります。
墓石には「近藤勇昌宜謹上」の文字があり、近藤勇が墓参りにも来ています。
幕府側に立って戊辰戦争を戦った盛岡藩の家老たちが幽閉された寺でもあります。
この記事では、徳川家康の「黒衣の宰相」以心崇伝が創建した、徳川幕府ゆかりの「金地院」を紹介します。
勝林山金地院のアクセス・基本情報
勝林山金地院のアクセス・基本情報
住所 | 東京都港区芝公園3-5-4 |
アクセス | 日比谷線神谷町駅から徒歩9分 三田線御成門駅から徒歩10分 大江戸線赤羽橋駅から徒歩10分 |
駐車場 | あり |
勝林山金地院の地図
近藤周助と新選組と金地院
金地院の近藤周助の墓(近藤勇建造)
金地院には、近藤勇の養父で天然理心流三代目・近藤周助(周斎)の墓があります。
近藤周助は慶応3年10月28日、76歳で亡くなりました。
近藤周助の墓までの道順
本堂と庫裡(くり)の前の道を進むと、閻魔堂と地蔵尊があります。
1.地蔵尊の向こうを左に折れ、
2.東京タワーに背を向けて奥側にまっすぐ進み、突き当ったら右に曲がります。
3.木の前で左に曲がります。
4.奥に金網が見えるので、その方向に進みます。また突き当るので、少し右に折れます。
5.墓と墓の間に細い道があります。
その道を通って奥の区画に進めます。
6.墓地の端、ネットの前の区画に着いたら、ネットの右端から数えて4基目が近藤周助の墓です。
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近藤勇が建てて墓参りした近藤周助の墓
墓石中央には近藤家の丸に三引き紋があり、その下に「周斎近藤邦武之墓」と彫られています。
右に彫られている戒名は「仁功院殿義山道周居士」です。
左下に、見えにくいですが「慶応三年霜月二十八日近藤勇昌宜謹上」と彫られていて、近藤勇が建てた墓だということがわかります。
墓石の裏面には「祠堂金二十両納之」と彫られています。
この20両は会津藩からの香典だったようです。
近藤勇は京にいて、近藤周助の死に目に会うことはできませんでした。
近藤周助が亡くなった翌年、慶応4年に鳥羽伏見の戦いで敗戦し、江戸に戻ります。
寛永寺で謹慎する徳川慶喜の警護をしますが、その後、甲陽鎮撫隊として甲州に行くことになります。
その前の慶応4年2月25日、新選組の「金銀出納帳」に、「石屋」に20両払ったことと、「芝参詣香料」に1000疋(ひき)(1000疋=10分=2両2分)という項目が記載されています。
これが、近藤勇が芝の金地院に近藤周助の墓参りに行った時の出費ではないかと言われています。
鳥羽伏見で敗戦し、試衛館時代からの仲間・井上源三郎やたくさんの隊士を失い、江戸に戻り、状況が大きく変化する中での墓参り。
どんな気持ちでこのお墓にお参りしたのでしょうね…
近藤勇はこの墓参りのわずか2か月後、近藤周助が亡くなってから半年後の慶応4年4月25日、板橋で斬首されて亡くなります。
享年35歳(満33歳)でした。
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近くに近藤周助の生家・嶋崎家の墓も
近藤周助の墓の左側の隣の隣に、「嶋崎氏先祖代々之墓」があります。
これは近藤周助の生家・嶋崎家の墓で、周助の甥(長兄の息子)、嶋崎佐太郎が建てたものです。
近藤周助(周斎)
近藤周助は寛政4年(1792年)、多摩の小山村の名主・嶋崎家に生まれます。
文化8年(1811年)、19歳で近藤三助(天然理心流2代目)の弟子になります。
近藤三助は文政2年(1819年)、46歳で突然亡くなってしまい、天然理心流の継承者がいない状態が11年続きます。
その間は初代の高弟などが地域ごとに門人を指導していました。
近藤周助は天保元年(1830年)、38歳で天然理心流を継いで、近藤の姓を名乗ります。
近藤周助が3代目を継ぐことになった事情は不明です。
天保10年(1839年)、47歳で市ヶ谷柳町に道場を開きます。
これが現代では通称・試衛館と呼ばれています。
嘉永2年(1849年)、57歳の時、15歳の宮川勝五郎を養子に迎えます。
この宮川勝五郎が後の近藤勇です。
文久元年 (1861年)、69歳の時、天然理心流を近藤勇に継がせ、隠居します。
この時名前を周斎と改めます。
文久3年(1863年)、71歳の時、近藤勇が浪士組として京に上ります。
この後、近藤周斎は中風で病床につきました。
慶応3年(1867年)、76歳で亡くなり、金地院に葬られました。
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金地院の御朱印
本堂の右横の庫裡(くり)で、玄関チャイムを押して、出てきたお寺の方に御朱印をいただきました。
近藤周助の墓の場所を聞くと、親切に案内してくださいました。
近藤周助の墓は、もう管理する方がいないようなのですが、こうして新選組関連でお墓参りの方が時々来るので、ご本人も喜ぶのでは、と言っていただきました。
本尊の御朱印
本尊の聖観世音菩薩の御朱印です。
金地院は江戸三十三観音の28番札所や、東京三十三観音霊場5番札所になっていて、そちらと同じ御朱印です。
閻魔大王の御朱印
境内(墓地に行く途中)にある閻魔堂(えんまどう)の御朱印です。
金地院に墓がある大名家・南部家にあった閻魔像だそう。
江戸閻魔四十四か所霊場の1番札所になっています。
金地院の御朱印帳はなし
御朱印帳は庫裡にも見当たりませんでした。
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金地院の歴史
金地院と旧幕府軍
金地院は戊辰戦争の時、幕府側に立って秋田戦争を戦い、破れた盛岡藩の家老・楢山佐渡(ならやまさど)、佐々木直作、儒学者・那珂五郎(なかごろう)が幽閉された寺です。
那珂五郎は幽閉中に「金地院日記」を書いています。
佐々木直作、那珂五郎はのちに許されますが、家老だった楢山佐渡は秋田戦争の首謀者として、故郷の盛岡で切腹となります。
墓は盛岡の聖寿寺。
盛岡藩の藩主・南部家の墓も金地院にあり、南部家と縁の深い寺でした。
金地院と徳川家康と黒衣の宰相
江戸の金地院は、徳川家康の「黒衣の宰相」と呼ばれた側近・以心崇伝が、元和(げんな)5年(1619年)に江戸城北の丸に創建しました。
寛永16年(1639年)、以心崇伝の死から6年後に、この場所に移転しています。
当時の境内は広く、今の東京タワーがある周辺の区画も金地院の敷地でした。
臨済宗南禅寺派の寺です。
黒衣の宰相・以心崇伝(金地院崇伝)とは
以心崇伝は、もともと京の南禅寺の住職です。
南禅寺の塔頭(寺内の小寺)の「金地院」を復興して住んだため、「金地院崇伝」とも呼ばれました。
徳川家康の駿府時代に外交事務を任されるようになり、側近となり、駿府城内に「金地院」を与えられます。
以心崇伝は、「武家諸法度」や「寺院諸法度」、キリスト教の取り締まりなどの重要な政策の制定に関わります。
僧で墨染めの黒い衣を着ていることから、同時代の家康の側近・天海僧正とともに「黒衣の宰相」と呼ばれました。
豊臣家が衰退する大阪の陣のきっかけになった、京の方広寺の鐘事件(豊臣家が作った方広寺の鐘の「国家安康」「君臣豊楽」の銘が、「家康」の名を引き裂いて豊臣家が栄えるよう願ったものだと言いがかりをつけた事件)では、言いがかりをつけたのは以心崇伝という説が広まっています。
(実際には関与していないという研究もあるなど、諸説あります)
家康の埋葬に関して、寛永寺の天海僧正と対立し、一時失脚。
許されますが、二代目秀忠の時代になり合議制になったことで、以降はアドバイザーのような立場になります。
そして徳川秀忠から、江戸城北の丸に「金地院」を拝領し、京の南禅寺の住職と兼務します。
寛永10年(1633年)、江戸城北の丸の「金地院」で亡くなります。
その6年後の寛永16年(1639年)、金地院は芝の増上寺(徳川家菩提寺)のすぐ近くに移転し、今の芝の金地院になりました。
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江戸切絵図や江戸名所図会に描かれた金地院
下の方に本堂と方丈(住居)があり、上の方に参道があります。
この切絵図に出ている金地院の、南側半分ほどは現在、東京タワーが建っています。
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金地院の他の見どころ
金地院の門前
門前から見上げると、東京タワーのすぐ足元にあるのがわかります。
昔は境内だった場所にタワーが建っています。
金地院の本尊
本尊は聖観世音菩薩像です。
昭和20年の東京大空襲で、寺院も本尊もすべて焼けてしまいました。
その後、伽羅の一本作りの聖観世音菩薩立像が新たに今の本尊となりました。
金地院の閻魔大王像
金地院の閻魔堂にある閻魔大王像は、通称「切通し閻魔」と呼ばれています。
金地院に墓がある大名家・南部家にあった閻魔像だそう。
金地院の南部家の墓
閻魔堂に向かって右の方に、盛岡藩・八戸藩の大名家、南部家の墓が並んでいます。
その向こうに見える赤いものは東京タワーの足。
金地院の六地蔵尊
閻魔堂のすぐ隣。
金地院の堀杏庵の墓
江戸前期の儒学者、堀杏庵(ほり きょうあん)の墓があります。
金地院の豊臣家・木下利次の墓
木下利次は、豊臣秀吉の北政所・ねねの甥の次男で、ねねの養子です。
寛永3年、徳川幕府の命で豊臣家を継ぎました。
その四男が金地院の住職となり、ここに墓があります。
墓石の裏面に「家門元領 豊臣姓 木下氏民部墓」と刻まれています。
金地院周辺の新選組ゆかりの地・観光スポット
真浄寺|御首題あり
昭和まで生きた最後の新選組隊士・稗田利八(池田七三郎)の墓があります。
日蓮宗の寺なので、御朱印ではなく御首題があります。
最勝院
増上寺をはさんで反対側にあります。
箱館戦争で捕虜となった新選組隊士などが、船で護送されてきて一時謹慎した寺です。
島田魁も一時ここで謹慎し、その後名古屋藩預かりになりました。
今は当時より50mほど東に移り、ビルの地下と最上階が寺ですが、参拝などは受け付けていません。