東京都新宿区の新撰組観光地・ゆかりの地

内藤新宿関門跡(四谷大木戸跡)|新宿区の新選組ゆかりの地・観光スポット

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内藤新宿関門跡

内藤新宿関門跡

内藤新宿の関門跡(四谷大木戸跡)は、土方歳三に関する逸話が残る場所でもあり、試衛館と多摩の行き来にメンバーが通った場所でもあり、甲陽鎮撫隊が通った場所でもあります。
現在は碑と案内板だけが残っている、内藤新宿の関門跡を紹介します。

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内藤新宿関門跡(四谷大木戸跡)のアクセス・基本情報

内藤新宿関門跡(四谷大木戸跡)のアクセス・基本情報

住所

東京都新宿区四谷4-9-12

アクセス

丸の内線四谷3丁目駅から徒歩10分

駐車場

なし
周辺コインパーキング
NPC24H新宿御苑前パーキングなど

内藤新宿関門跡(四谷大木戸跡)の地図

内藤新宿関門(四谷大木戸)と新選組の関わり

四谷大木戸(江戸名所図会・四谷大木戸藪そばの店前にあった案内)

四谷大木戸(江戸名所図会・四谷大木戸藪そばの店前にあった案内)

現在の四谷四丁目交差点あたりに、内藤新宿の関門がありました。
内藤新宿の関門は、江戸から甲州街道を使って多摩方面に行く時の出入口でした。
土方歳三の逸話が有名ですが、他の新選組メンバーも何度も通っています。

内藤新宿関門での土方歳三の逸話

四谷大木戸跡から見た大和屋清兵衛宅があった方向

四谷大木戸跡から見た大和屋清兵衛宅があった方向

佐藤彦五郎の孫がまとめた「聞きがき新選組」に、内藤新宿関門と土方歳三の逸話があります。

慶応3年、土方歳三は隊士募集に京から江戸に戻ります。
日野宿本陣の佐藤家に泊まった後、甥の佐藤源之助(土方歳三の姉ののぶと佐藤彦五郎の間の長男)とともに江戸に向かいます。

土方歳三は、内藤新宿に至る手前で、四谷新町(現在の新宿区西新宿)にあった大和屋清兵衛宅(親類・石田散薬取次店)を訪れます。
徳川家直参の陣笠をかぶった立派な武士が来たので驚かれますが、よく見れば石田村の歳さんに日野の源之助さん、とわかり、歓待されます。

お供の二人を一足先に行かせることにして、関門の役人に、新選組の土方歳三の供と名乗って江戸に入るように言います。
この頃、不逞浪士が江戸に入り込むことがあり、通行者の取り調べが厳しくなっていました。

小半時(およそ30分)ほどでお供の二人は戻ってきて、主人が来なければ通行を許さぬと叱り飛ばされ、江戸に入れなかったと言います。
それを聞いた土方歳三は大和屋を出て関所に向かいます。

土方聴いて大に怒り、しからば行かんと大和屋を出立つ。されども顔色は、常の如く少しく笑みを含みながら、福草履緩かに。
(中略)
ここへ来た土方は、突立ったままの大声呼ばわり「拙者は供の者共の申述べた土方歳三である。上役に直談する」と、大刀ひっ提げ見張所の座敷へ登って行った。役人等は周章狼狽、見るから気の毒な様にこれを止めたが、いっかな聴かず「偽人と見るなら上役殿を、拙者の宿所に同伴しよう」と、左右をおもむろに睥睨するその眼光、平素の歳三伯父さんとは、全く別人の如くで、威風辺りを払うとはこんなところをいうのであろう。
「聞きがき新選組」(佐藤昱)より

狼狽した関所の役人たちが相談し合い、そのまま通してくれました。
土方歳三の甥・佐藤源之助が初めて見た、新選組副長としての土方歳三の顔でした。

二、三丁行き過ぎて土方は、今かの役人等の眠気を醒ましてやったのだと云いながら、呵々大笑したと云う。
「聞きがき新選組」(佐藤昱)より

四谷大木戸を入って少し行ったあたり。土方歳三がこの先で呵々大笑した

四谷大木戸を入って少し行ったあたり。土方歳三がこの先で呵々大笑した

通り過ぎて大笑いするあたりが、とても土方歳三らしさを感じさせるエピソードですね。

石田散薬の江戸取次店もあった内藤新宿関門(四谷大木戸)付近

内藤新宿付近には、3軒の土方家の親戚が住んでいて、石田散薬の江戸取次店になっていました。
薬売り時代の土方歳三は、石田散薬の印(山丸印)の入ったつづらを背負って来て、この取次店に置き薬をし、次回来た時に使った薬の分の代金を回収していたようです。
土方歳三にとっては何度も来た場所でした。
試衛館も遠くないので、石田散薬を卸してから試衛館に立ち寄ることもあったかもしれませんね。

伊勢屋・平岡伊兵衛

土方歳三が石田散薬を卸しにきた伊勢屋

土方歳三が石田散薬を卸しにきた伊勢屋(〔江戸切絵図〕. 四ツ谷絵図

四谷大木戸近くにあった店。土方歳三祖父の妹が嫁ぎ、土方歳三の叔父が養子に入っています。
江戸切絵図で見つけることができないのですが、切絵図でグレーになっている部分は町屋としてまとめて描かれているので、その中にあった可能性があります。
角にあったという話も何かで聞いたのですが、出典が思い出せず…
四谷大木戸近くの角は水番小屋があったり武家屋敷があったりなので、角にあったのが正しければ、消去法で現在モスバーガーなどがある付近でしょうか。

大和屋清兵衛

四谷大木戸から外側

四谷大木戸から外側。大和屋清兵衛宅は甲州街道の方(〔江戸切絵図〕. 内藤新宿千駄ヶ谷絵図

大和屋清兵衛の家は上で書いた、土方歳三が関所を押し通る逸話の時に立ち寄った親類宅です。
四谷新町(現在の新宿区西新宿3丁目あたり。四谷大木戸の外側)にあった酒屋で、土方歳三の祖父の弟が養子に入っています。

鮫ヶ橋清水家

右の方に鮫ヶ橋という地名が見える。石田散薬取次店の鮫ヶ橋清水家があった付近

右の方に鮫ヶ橋という地名。石田散薬取次店の鮫ヶ橋清水家があった付近(〔江戸切絵図〕. 四ツ谷絵図

鮫が橋は現在の新宿区若葉2丁目、3丁目、南元町あたりにあった地名。
四谷大木戸から江戸の内側に入って、現在の四ツ谷駅の方向に進んだ場所です。
この鮫が橋清水家も江戸取次店で、土方家の親類でした。
江戸切絵図では鮫ヶ橋という地名しか見つかりません。

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日野との行き来で毎回通る内藤新宿

試衛館標柱

試衛館跡から四谷大木戸跡は歩いて30分

内藤新宿は甲州街道の始めにある宿場です。
試衛館から出稽古に日野や多摩方面に行く時は、毎回この内藤新宿の関所を通ったと思われます。
近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助たちは試衛館から出稽古に行く時通り、井上源三郎は日野から試衛館に来る時などに通っています。

甲陽鎮撫隊も通った内藤新宿

鳥羽伏見で敗戦した後、山梨方面に出陣することになり、新選組は甲陽鎮撫隊と名を変えます。
この時も甲州街道を使ったため、内藤新宿の関門を通っています。
近藤勇、土方歳三、永倉新八、斎藤一、原田左之助が甲陽鎮撫隊としてここを通りました。
(沖田総司は療養していたため、甲陽鎮撫隊に途中まで同行したかどうかは諸説あります)

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内藤新宿の位置

江戸切絵図で見る内藤新宿

四谷大木戸から外側

四谷大木戸から「追分」付近が内藤新宿(〔江戸切絵図〕. 内藤新宿千駄ヶ谷絵図

四谷大木戸から、現在の新宿三丁目にあった追分(甲州街道と青梅街道の分岐点)まで1キロほどの場所が内藤新宿でした。
四谷大木戸側が下宿、西に向かって仲宿、追分近く(新宿三丁目付近)は上宿と呼ばれました。
土方歳三が立ち寄った大和屋清兵衛宅は、上宿よりもっと西にあります。

現在の内藤新宿関門(四谷大木戸)跡

四谷大木戸の外側から江戸城方面を見た図

四谷大木戸の外側から東の江戸城方面を見た図

交通量の多い交差点です。
交差点の西側と北東側にも、四谷大木戸跡の小さな標識があります。
交差点北側が、田安徳川家(徳川家の分家の一つ)の下屋敷があった場所です。

四谷大木戸跡から甲州街道方面を見た図

四谷大木戸跡から西の甲州街道方面を見た図

少し西の碑が建っているあたりや、トンネルが掘られた車道などが、玉川上水の水番が置かれた場所。

交差点に関門がありました。

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四谷大木戸の碑と案内板

実際に大木戸があった交差点から80mほど西(大木戸の外側)に行ったあたりに、四谷大木戸の碑と案内板があります。

四谷大木戸の碑

四谷大木戸の碑

玉川上水の大きな碑があり、その後ろの方にある小さな碑です。

玉川上水の碑四谷大木戸の案内板

玉川上水の碑と、玉川上水や四谷大木戸についての案内板。

交差点近くには木の小さなモニュメントも

水番所などがあった大木戸の外側にあたる交差点の一角に、小さなモニュメントがあります。

四谷大木戸のモニュメント。

四谷大木戸のモニュメント。

交差点近くにある小さな四谷大木戸の碑

四谷大木戸と書かれた小さな碑が、交差点の別の一角にもあります。

四谷大木戸のモニュメント

四谷大木戸のモニュメント

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内藤新宿の特徴

内藤新宿の本陣

浅草の商人・高松喜兵衛たちが内藤宿に新しい宿場を開設したいと願い出て、開設後は名主となり本陣を運営しました。
が、火災で焼けたり、内藤新宿の宿場自体が一時廃止になるなどの混乱もあり、本陣が存在しない時期もありました。

内藤新宿の高札場

四谷大木戸から外側

四谷大木戸から外側。追分の近くに高札の文字

上宿と呼ばれる、現在の新宿駅に近い、新宿4丁目交差点付近に高札場がありました。
ここは追分と呼ばれる、甲州街道と青梅街道の分岐点でした。
まっすぐ西に進めば青梅街道、左に曲がれば甲州街道です。
今も「追分だんご」などがあります。

内藤新宿と玉川上水

玉川上水の碑

玉川上水の碑

江戸の水不足を解消するために、多摩川から玉川上水が引かれていました。
内藤新宿の関門外側に水番所があって、水量の調整や、ごみを取り除いて水質の調整をしていました。
現在、新宿御苑の下を通るトンネルが掘られている方です。

内藤新宿と飯盛女と旅籠

公認遊郭以外の場所に遊女を置くことは認められていませんでしたが、給仕をするという名目で旅籠に「飯盛女」として置かれ、岡場所(色街)として賑わいました。
飯盛女は内藤新宿の宿場全体で150人まで、という規制がありました。

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内藤新宿の歴史

「四谷大木戸藪蕎麦」店頭にある説明の貼り紙

「四谷大木戸藪蕎麦」店頭にある説明の貼り紙

もともと、高遠藩主内藤氏の菩提寺・太宗寺(たいそうじ)の東側の門前町が内藤宿と呼ばれていました。
元禄11年、内藤氏の敷地を一部提供されて、宿場建設の許可が出て、内藤新宿と呼ばれるようになりました。
享保3年に一時廃止されますが、明和9年再開します。
江戸から近いため、旅の宿というより、飯盛女を抱える岡場所(色街)として賑わいました。

新宿という地名は内藤新宿から来ています。

内藤新宿関門跡(四谷大木戸)周辺の新選組ゆかりの地・観光スポット

沖田総司逝去の地(案内板あり)

沖田総司が亡くなった、植木屋・柴田平五郎宅の離れがあった場所です。
案内板がありますが、実際にはそこから新宿御苑の方に少し行った、茶色い富士見ビルのあたりが母屋で、離れはその近辺の路上などです。

試衛館・試衛館稲荷

近藤勇が道場主をしていた試衛館の跡。
現在は標柱と稲荷だけが残っています。

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