東京都港区の新撰組観光地・ゆかりの地

最勝院(島田魁たちが明治に謹慎)|港区の新選組ゆかりの地・観光スポット

更新日:

最勝院(島田魁たちの明治の謹慎地)

最勝院(島田魁たちの明治の謹慎地)

芝の最勝院は、明治2年、箱館戦争で降伏した島田魁たち新選組隊士や旧幕府軍兵士が、東京に移送されて謹慎した浄土宗の寺です。
増上寺の寺内にあった子院で、隊士たちはここで謹慎したのち、各藩に引き渡されました。
現在は当時の場所から移転し、マンションの地下や最上階が寺となっていて面影はありません。
ここでは島田魁たちの明治の謹慎地・最勝院を紹介します。

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最勝院のアクセス・基本情報

最勝院のアクセス・基本情報

住所

港区芝公園2丁目11-25

アクセス

都営三田線芝公園駅から徒歩4分
JR浜松町駅から徒歩10分

駐車場

なし
周辺コインパーキング
タイムズ芝大門第4(15分300円)など

公式サイト

最勝院公式サイト

最勝院の地図

青いピンのところが現在の最勝院、黒で囲んだ場所(交差点北側)が、当時最勝院があった付近です。

芝・最勝院と新選組

最勝院跡地(芝公園グランド前交差点北側)

最勝院跡地(芝公園グランド前交差点北側)西側から跡地を見た状態

明治の島田魁たち降伏隊士

明治2年5月18日、箱館戦争が終結します。
降伏した新選組隊士や旧幕府軍兵士は、青森や箱館の寺で謹慎します。
その後、一度箱館に集められ、明治2年11月4日に船で箱館を出発。
11月8日の朝に品川港に着きます。

芝・最勝院での新選組隊士の謹慎

八日朝品川港ニ着ス、夕景芝山内ニ入ル
(「島田魁日記」島田魁)

この「芝山内」というのが「増上寺境内」を指しています。
当時、最勝院は増上寺の境内にある塔頭(たっちゅう・境内にある小寺)の一つでした。
元は徳川家が、菩提寺である増上寺の法要に出席した時に休憩や会食をした場所で、広い和室がありました。
島田魁日記では「芝山内」としか書かれていませんが、この時滞在したのが最勝院です。

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新選組隊士を各藩に受け入れ

最勝院跡地(跡地の敷地内から東端にあたる円形の場所を見た状態)

最勝院跡地(跡地の敷地内から東端にあたる円形の場所を見た状態)

最勝院に島田魁がいたのは12日間です。
11月8日夕方に最勝院に入り、11月10日には、戊辰戦争中に桑名藩から新選組に入った隊士たちが桑名藩に復帰することが認められ、深川の霊巌寺に移ります。

廿日兵部省ヨリ達シ有リ、名古屋藩エ預ケニナル
(「島田魁日記」島田魁)
※「廿」=「二十」の略した書き方

島田魁も11月20日、名古屋藩に身柄を預けられました。
名古屋藩に預けられた新選組隊士は、島田魁、田村義利、田村義忠、大橋山三郎、山崎義範、中山国久、江川助之、上田安達之助、本多岩吉の9名です。

その後の島田魁

最勝院跡地に咲いていたあじさい

最勝院跡地に咲いていたあじさい

名古屋に移動し、名古屋城内で謹慎しました。
明治3年1月に謹慎が解かれますが、明治5年6月までは兵部省からの通達で、名古屋藩預かりの状態でした。
名古屋藩預かりが解けて自由の身になってからは京都で、妻のさとや子供たちと暮らします。
レモネード屋や雑貨屋を始めますがうまくいかず、店をたたみ、「島田魁剣術道場」を開きます。
こちらも経営は苦しく、かつて新選組屯所だった西本願寺で夜警の仕事もしていました。
出仕の話もありましたが、断っています。

亡くなった新選組隊士の菩提を弔うため、毎日念仏を唱えていました。
そして、箱館で戦死した土方歳三の戒名「歳進院誠山義山豊大居士」を書いた布を、いつも懐に入れていました。
「島田魁日記」などの記録も残しました。
訪ねてきた永倉新八とも交流しています。

明治33年(1900年)3月20日、持病の喘息発作で、自主的に見回りをしていた職場の西本願寺(かつての新選組屯所)で倒れて亡くなります。
享年73歳でした。
葬儀には、北海道から永倉新八(この時61歳)も駆けつけています。
永倉新八と島田魁は、新選組に入るより前、坪内主馬道場にいた頃からの知り合いで、島田魁が新選組に入ったのも永倉新八の縁という推測もあります。

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最勝院の当時と現在

当時の最勝院があった場所

最勝院跡地(芝公園グランド前交差点北側)

最勝院跡地(芝公園グランド前交差点北側)西側から跡地を見た状態

新選組が謹慎した幕末から明治には、最勝院は現在より西の、「芝公園グランド交差点」の北側にありました。
現在は、地下に芝公園駅があり、日比谷通りをまたいで東側の広場と西側の芝公園の一部となっています。

最勝院(江戸切絵図)

最勝院は増上寺の右下に書かれている(〔江戸切絵図〕. 芝愛宕下絵図

かつては日比谷通りはなく、付近には増上寺の子院がずらりと並んでいました。

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現在の最勝院

現在の最勝院があるビル

現在の最勝院があるビル

現在の最勝院は50メートルほど東で、平成18(2006)年に境内地にビルを建て、賃貸マンションビルになりました。

現在の最勝院入口

現在の最勝院入口

地下と最上階が最勝院で、地下に降りる階段に小さな表札はありますが、拝観などは受け付けていません。

最勝院に御朱印はなし

現在の最勝院は拝観も受け付けておらず、御朱印もありません。

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最勝院の歴史

現在の最勝院の表札

現在の最勝院の表札

増上寺の塔頭で徳川秀忠正室・江(ごう)の御霊屋別当

寛永3年(1626年)9月15日、二代将軍・徳川秀忠の正室、江(ごう)の方が亡くなります。
江の位牌を祀る御霊屋(おたまや)があり、それを守る別当寺として、増上寺内に塔頭(たっちゅう・境内の小さい寺で子院とも呼ばれる)として創建されました。

創建当時の御霊屋と二つの門は、20年後に家光が建て替えた後、鎌倉の建長寺に、本尊を祀る仏殿として移築されて残されています。

最勝院は増上寺で江(ごう)の方の法要が行われる時、徳川秀忠や家光が立ち寄って、着替えや休憩、会食をするのに使われていました。

最勝院の仏像(非公開)

元々増上寺の子院だったため、本尊は増上寺の本尊でした。
が、江(ごう)の念持仏(私的に拝んでいた仏像)が寺宝として伝わっています。
平成21年に、増上寺の子院の妙定院から阿弥陀三尊を移され、本尊としています。

最勝院の寺宝(非公開)

江(ごう)の念持仏と位牌(繰り出し:一族の位牌を何枚かまとめて箱に入れたもの)のほか、供養納経重箱、家康から江へ贈られた松の盆栽の由来を記した掛け軸、家光直筆の墨絵、小堀遠州の掛け軸などが残されています。
また、江(ごう)の法要の際などに使われた葵の紋の入った漆器やおひつ、茶器も残されています。
寺を公開していないため、すべて非公開です。

明治19年に現在地に移転

明治19年、最勝院は現在の場所に移転します。
当時はまだ、現在のマンションの3倍ほどの敷地面積がありました。

増上寺は徳川家の菩提寺で、子院が多くありましたが、明治になって幕府の庇護を受けられなくなってからは、子院は多くが移転したり廃寺になったりしています。

その後大正12(1923)年、関東大震災で被災して再建します。

最勝院には吉川英治も滞在

昭和6年から10年6月まで、移転後の現在の場所にあった最勝院に、作家の吉川英治が滞在しています。
当時、別の子院に住職がいて、最勝院の建物は借家として使われていました。
吉川英治は浄土宗の寺である最勝院で、浄土宗の宗祖を書いた「親鸞」を執筆しました。

当時の建物は、昭和20年、太平洋戦争で焼けてしまいました。
その後、昭和54年にも隣家が火元の火事で焼けています。

最勝院のマンション化

現在の最勝院があるビル

現在の最勝院があるビル

平成18年、境内にビルを建てて賃貸マンションとなります。
そして地下と最上階が寺となりました。

現在、参拝などは受け付けていません。
大河ドラマで「江」が放送された平成23年には、江の命日9月15日から4日間だけ、寺宝の公開がありました。
その翌年には、江戸東京博物館に寺宝を貸し出しての展示などがありました。

最勝院周辺の新選組ゆかりの地・観光スポット

金地院(近藤勇が建てた近藤周助の墓)

近藤勇が建てた、養父で天然理心流3代目・近藤周助の墓があります。
御朱印もあり。

真浄寺(最後の新選組隊士・池田七三郎=稗田利八の墓)

昭和まで長生きした最後の新選組隊士・池田七三郎(稗田利八)の墓があります。
御首題あり。

伊予松山藩邸跡(原田左之助勤務地)|何もなし

原田左之助が14歳頃から従卒として勤めていた、伊予松山藩の藩邸跡です。
ここで切腹しかける騒ぎがあり、新選組に入った後も原田左之助はこの時の腹の傷を自慢しています。
案内板も何もありません。

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