港区赤坂には、土方歳三が近藤勇の助命工作に訪れた、勝海舟の幕末の屋敷跡があります。
現在はマンションの下に標柱と案内板が立っています。
勝海舟は何度も引っ越したため、赤坂には3か所、勝海舟邸跡があります。
このうち、この記事では、新選組と手紙をやり取りしたり、坂本龍馬が訪れて門弟になったり、江戸城無血開城に奔走したり、土方歳三が訪れた時に勝海舟が住んでいた、幕末の勝海舟邸跡を特集します。
勝海舟邸跡のアクセス・基本情報
勝海舟邸跡のアクセス・基本情報
住所 | 東京都港区赤坂6-10-41 |
アクセス | 千代田線赤坂駅から徒歩6分 銀座線溜池山王駅から徒歩11分 |
駐車場 | なし 周辺コインパーキング ユアー・パーキング赤坂6丁目(30分500円)など |
勝海舟邸跡の地図
勝海舟邸跡と赤坂
赤坂で3か所に住んだ勝海舟
勝海舟は何度も引っ越しをしており、赤坂では3か所に住んでいました。
上の図の1番は、勝海舟が新婚時代から咸臨丸で渡米する前年まで住んだ借家です。
ここに住んでいる時にペリーが来航しました。
ここは現在は商業地で、案内板も何もありません。
上の図の2番は、咸臨丸で渡米した年から明治元年、徳川慶喜に従って静岡に移るまで住んだ家です。
ここに住んでいる間に、勝海舟は咸臨丸で渡米し、坂本龍馬が訪ねて来て門弟になり、将軍・徳川家茂とともに上洛して岡田以蔵に護衛され、新選組に入った甥(佐久間象山遺児の格次郎)のことで新選組と手紙をやり取りし、江戸城無血開城に奔走し、土方歳三が近藤勇の助命嘆願に来訪したのを迎えます。
ここにはマンションの下に標柱と案内板が立てられています。
これが今回特集する、土方歳三が助命工作に来た屋敷跡です。
上の図の3番は、明治5年から明治32年に亡くなるまで住んだ家で、図に載っている柴田家から購入した屋敷です。
ここに住んでいる間に、同志社大を設立した新島 襄(山本八重の夫)や、日本の体育の父と呼ばれる嘉納治五郎と交流し、訪問を受けました。
さらに亡くなる前年の明治31年には、徳川慶喜も、明治天皇に大政奉還以来初めて江戸城で拝謁し、このことで奔走した勝海舟をねぎらうためにこの3番の住居を訪れています。
ここには勝海舟と坂本龍馬の師弟像と案内板があり、敷地に建てられた港区子ども中高生プラザの中に、勝海舟邸から出土した当時の陶器などが展示してあります。
ここには坂本龍馬や新選組は訪れていません。
では、上の図の2番、新選組と関わった期間の勝海舟邸を見ていきます。
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勝海舟邸跡と新選組の関わり
新選組と関わった期間の勝海舟邸
勝海舟はここに、安政6年(1859年)7月から明治元年(1868年)10月まで、9年間住んでいました。
新選組誕生の4年前から、土方歳三たちが箱館五稜郭に入る明治元年10月までです。
現在はマンションの下に標柱と案内板だけが残っています。
「ヴィップ赤坂」「ソフトタウン赤坂」(「神戸ごはん田中屋」が入っているマンション)の敷地と、さらに氷川神社寄りの「チェリス氷川坂」の敷地の一部が勝海舟邸でした。
写真に写っているマンションと、その奥とさらに奥の建物あたりの、細長い敷地でした。
江戸切絵図では、頭文字が書かれている側が門です。
写真のマンションの標柱がある側に門があり、氷川神社に近い側が奥でした。
勝海舟から近藤勇、土方歳三への礼金
慶応2年7月5日、勝海舟はこの屋敷から、京の近藤勇と土方歳三、そして会津藩士の山本覚馬に、佐久間象山(さくましょうざん)の遺児(勝海舟の甥)を引き受けた礼金を贈っています。
勝海舟の妹は、兵学家・砲術家の佐久間象山に嫁いでいます。
開国派の佐久間象山が京で攘夷派に暗殺された後、佐久間象山の遺児・佐久間格次郎が、仇討ちのために「三浦敬之助」と名乗って新選組の客分になっています。
土方歳三がこのことを、佐久間格次郎(三浦敬之助)の伯父にあたる勝海舟に手紙で知らせています。
この手紙が届いたのが、当時住んでいたこの屋敷です。
そして慶応2年、勝海舟はこの件で、甥の佐久間格次郎(三浦敬之助)を引き受けた近藤勇と土方歳三、紹介した会津藩士の山本覚馬(大河ドラマで有名になった、会津の山本八重の兄)に、この屋敷から礼金を贈っています。
土方歳三の近藤勇助命工作
慶応4年4月4日、土方歳三はここにあった勝海舟邸を訪ねます。
土方歳三来る。流山転末を云。
(「海舟日記」)
近藤勇が「大久保大和」と名乗って流山で出頭したのが、慶応4年4月3日、この前日です。
どのような内容を話し合ったかは記録が残っていませんが、土方歳三の目的は、近藤勇の助命工作だったと言われています。
その夜、土方公、附き添い両人召し連れ江戸表に行き、大久保一翁、勝安房(勝海舟)両公へ対談し云々これある。
(「島田魁日記」)
この後、土方歳三は軍事方の松濤権之丞(まつなみごんのじょう)の「(流山では)不慮の事件があったが勝海舟の命で脱走兵の取り締まりをしていただけで、異心はない」という内容の、「大久保大和」への寛大な処置を求める手紙を、同行していた新選組隊士・相馬主計に板橋に届けさせます。
そして何日か江戸に潜伏したのち、江戸城無血開城が行われた4月11日に、現在の千葉県市川市の国府台(当時は鴻ノ台)に集まっていた旧幕府軍に合流します。
が、板橋では既に大久保大和が近藤勇だと判明しており、手紙を届けた相馬主計も捕まってしまいます。
土方歳三はそのことを知らないまま、旧幕府軍が集まる市川市の国府台(鴻ノ台)に向かったと思われます。
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天然理心流門人・福田平馬も近藤勇の助命嘆願に
土方歳三の9日後の慶応4年4月13日、天然理心流門人の福田平馬も、近藤勇の助命を嘆願するためにこの勝海舟邸を訪れています。
江戸城無血開城が行われた3日後のことでした。
大久保大和門人福田平馬来る。大和之事頼ミ置由
(「海舟日記」)
こちらも、話し合った詳しい内容はわかっていません。
福田平馬
福田平馬は天然理心流門人で、徳川家の先手組与力(さきてぐみ よりき:治安維持や警備、火付盗賊改めなどの武官で、頭の元に与力と同心がいた)でした。
近藤勇が京に行った後、江戸の試衛館の留守を預かった一人です。
甲陽鎮撫隊が出陣する時も、近藤勇の家族が中野の成願寺に世話になれるよう口利きをしたりしています。
助命ならず:近藤勇の処刑
「大久保大和」については松濤権之丞が口添えをしたものの、徳川幕府は「近藤勇」については、知らないという態度を貫きます。
近藤勇は坂本龍馬暗殺を指示したと思われて新政府側から恨みを買っていました。
幕府側が近藤勇を切り捨てたのは、徳川家や徳川慶喜の助命のため、新政府軍を刺激したくなかったからと言われています。
土方歳三や福田平馬の助命工作にもかかわらず、近藤勇の助命はならず、慶応4年4月25日、板橋で斬首されました。
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勝海舟邸と他の幕末志士
この場所に住んでいる間に、勝海舟は他の幕末志士とも大きく関わっています。
最も有名なのは坂本龍馬です。
勝海舟邸と坂本龍馬
新選組が結成される前年の文久2(1862)年、坂本龍馬は初めて勝海舟邸を訪れます。
この時勝海舟が住んでいたのも、土方歳三が助命工作に来たのと同じ場所にあった勝海舟邸です。
一説では、坂本龍馬は「納得できなければ刺してやろうと思って来た」と言われています。
坂本龍馬は、ここで勝海舟の開国論を聞いて、それまでの攘夷論から考えを改め、勝海舟の門人となります。
そして勝海舟の海軍操練所設立に奔走し、海援隊や薩長同盟、船中八策や大政奉還など、幕末の歴史に大きく関わっていきました。
勝海舟と坂本龍馬の師弟像が、ここではなく歩いて5分ほどの、明治に勝海舟が住んでいた屋敷跡に立てられています。
勝海舟邸と岡田以蔵
新選組が結成される文久3年、将軍・家茂の上洛に伴い、勝海舟も上洛します。
この時、岡田以蔵が勝海舟の護衛をします。
同じ土佐の坂本龍馬の紹介だろうと推測されています。
この時期も勝海舟の家はこの赤坂でしたが、岡田以蔵が護衛をしていたのは京でのことで、この家には来ていません。
勝海舟邸と佐久間象山の妻(勝海舟の妹)
明治元年5月、一部の新政府軍兵士がこの勝海舟邸に乱入します。
勝海舟は留守でした。
この時、勝海舟の妹で佐久間象山の未亡人の瑞枝が、一歩も引かずに応対し、兵士を引き上げさせました。
この逸話は、現地の案内板にも載っています。
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赤坂氷川小学校跡の勝海舟邸跡(明治)
明治になってから勝海舟が住んでいたのが、地図の茶色いピンのスポットです。
幕末の勝海舟邸跡から、歩いて5分ほどです。
新選組はここには来ていませんが、近くて関連性が高いのでこちらも紹介しておきます。
明治5年以降の勝海舟邸(銅像あり)
明治5年から明治36年、76歳で亡くなるまで勝海舟が住んでいました。
旗本の柴田家から購入した屋敷です。
外の一角に、勝海舟と坂本龍馬の師弟像があり、そばに「史蹟 勝安芳邸址」の碑と案内板があります。
碑の後ろに大銀杏がありますが、これは勝海舟邸の中心部に当時からあった木を移植したものです。
こちらの屋敷に当時あった長屋門は、練馬区三宝寺に移築されています。
子ども中高生プラザの中に勝海舟邸から出土した茶碗などの展示品
敷地はかつては氷川小学校で、統廃合されて移転した今は子ども中高生センターや老人ホームが建っています。
この子ども中高生プラザ内に、勝海舟邸から出土した茶碗などが展示されています。
幕末から使っていたものがあるかどうかは不明です。
写真の、中高生プラザ入口側に勝海舟邸の門があり、その奥が屋敷でした。
子どもでも中高生でもないので少し入りにくく感じますが、受付にも誰もおらず、展示はこちらですという案内表示に従ってまっすぐ奥に進み、ロボットのようなオブジェの右手に展示がありました。
入ってわりとすぐで、自分で電灯のスイッチを入れて見るようになっています。
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明治以降の勝海舟邸と新島襄
1879(明治12)年2月以降、同志社大の設立者・新島襄は勝海舟邸を訪れています。
その時の場所は、今銅像が建っている方の勝海舟邸跡です。
勝海舟の妾腹の三男・梶梅太郎の妻クララはアメリカ人で、クララの実家ホイットニー家がこの勝海舟邸に住んでいました。
新島襄は何度か勝海舟邸を訪れ、クリスチャンなのでホイットニー家の礼拝にも参加しています。
また、勝海舟に墨書してもらった「六然訓」を自宅に飾っていました。
明治以降の勝海舟邸と嘉納治五郎
「日本体育の父」と呼ばれる教育者の嘉納治五郎は、その父の代から勝海舟と交流がありました。
学習院の教員をしていた頃、嘉納治五郎はこの明治期の勝海舟邸を訪ねて、教員をやめて学問に集中したいと相談します。
勝海舟は「それでは学者になってしまう。事をなしつつ学問をなすべきだ」とアドバイスし、以降、嘉納治五郎は実践的な教育を心がけるようになったという逸話があります。
明治以降の勝海舟邸と徳川慶喜
勝海舟が亡くなる前年の明治31年、徳川慶喜は皇居(江戸城)で明治天皇に拝謁します。
大政奉還以降初めての明治天皇への拝謁で、江戸城明け渡し以降初めての、かつての江戸城訪問でした。
ここで徳川慶喜は、明治天皇・皇后と同じ食卓を囲み、皇后に酌をされるという栄誉を受けます。
その後、徳川慶喜はこの拝謁に手を尽くした勝海舟をねぎらうため、勝海舟邸を訪れています。
これも、銅像が立っている方の勝海舟邸でのことです。
勝海舟邸周辺の新選組ゆかりの地・観光スポット
斎藤一居住地(泉ガーデンタワー入口)|何もなし
斎藤一が明治21年から24年まで住んでいた家の跡地。
現在は泉ガーデンタワーの入口少し北付近になっていて、案内も何もありません。
青山霊園
新選組隊士から御陵衛士になった、加納鷲雄、篠原泰之進の墓があります。
ほか、市川から箱館戦争まで土方歳三とともに旧幕府軍を率いた大鳥圭介など、旧幕府軍側の人の墓も多くあります。