明治10年、警察に入った斎藤一(藤田五郎)が西南戦争に出征する時、新橋停車場から蒸気機関車に乗りました。
当時の駅舎は関東大震災で焼けてしまいましたが、現在は、同じ場所に同じ建物が復元されて、展示室やビアレストランになっています。
ここでは、斎藤一ゆかりの旧新橋停車場を紹介します。
旧新橋停車場のアクセス・基本情報
旧新橋停車場展示室のアクセス・基本情報
休館日 | 毎週月曜(祝祭日の場合は翌火曜日が休館) 年末年始(12月29日~1月3日) 展示替え期間中 ※展示替え期間は長く休むので、公式サイトで開館日を要確認 |
開館時間 | 10:00-17:00 (入館は閉館15分前まで) |
住所 | 東京都港区東新橋1-5-3 旧新橋停車場 鉄道歴史展示室 |
アクセス | JR新橋駅から徒歩5分 都営浅草線新橋駅から徒歩4分 |
駐車場 | なし タイムズ汐留シティセンター(30分300円)など |
公式サイト | 旧新橋停車場 |
旧新橋停車場の地図
旧新橋停車場と斎藤一と西南戦争
西南戦争に出征するまでの斎藤一(藤田五郎)
斎藤一は会津戦争で会津藩が降伏した後、「藤田五郎」と改名し、他の会津藩士と一緒に、会津松平家に新たに下された領地・斗南藩(青森県五戸)に移住します。
開拓はうまくいかず、生活は苦しいものでした。
明治7(1874)年、30歳の時、生家の山口家を頼って東京に出てきます。
そして同じ年に、会津藩士の娘・高木時尾と結婚し、文京区で暮らします。
2年後の明治9(1876)年、長男・勉が生まれます。
そして斎藤一33歳、長男の勉が1歳の明治10(1877)年2月、九州で士族の反乱、西南戦争が始まります。
軍事力として、内務省警視局が士族を警視官として臨時募集し、6600名採用しました。
斎藤一も明治10(1877)年2月20日、警視局の警部補となっています。
そして、西南戦争へ向かう「豊後口警視徴募隊」の二番小隊の半隊長となります。
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新橋停車場から西南戦争に出征する斎藤一(藤田五郎)
明治10(1877)年5月18日、斎藤一(藤田五郎)を含む豊後口警視隊は、正午に新橋停車場から蒸気機関車に乗って出発します。
新橋停車場は明治5(1872)年に開業したばかりの、日本初の鉄道ターミナルでした。
同じ豊後口警視隊の第一隊にいた千葉束(坂本龍馬の婚約者とされる北辰一刀流・千葉さなの甥)は
此出師の光景を見んとて沿道に集ふ者宛ら堵の如くなり
(「千葉の名灸」(千葉束への取材で連載された新聞記事))
※堵(と)=垣根
と、沿道に人が大勢集まって、西南戦争に出征する光景を見に来ていたことを語っています。
斎藤一が乗った蒸気機関車は13時には横浜停車場(現在の桜木町駅から関内方向に120メートル進んだ付近)に到着します。
そこから豊後口警視隊は横浜港に向かい、20時に三菱汽船「名護屋丸」で横浜港を出航しました。
名護屋丸は神戸に寄港した後、5月21日に大分県の佐賀関港に着いています。
西南戦争での斎藤一(藤田五郎)の戦い
斎藤一(藤田五郎)は西南戦争では、竹田城(大分県竹田市)の戦い、梅津越・葛葉峠の戦い、三川内の戦い(大分県佐伯市から宮崎県延岡市)などで戦いました。
竹田城の戦い
明治10(1877)年5月25日、斎藤一(藤田五郎)がいた二番小隊は、別動隊として働き、急な坂をのぼって薩摩兵のたてこもる山頂を占拠しています。
26日には、薩摩の土塁に時の声をあげて突き進み、大砲を奪っています。
29日の再戦でも薩摩を撃退しましたが、斎藤一(藤田五郎)の結婚の時に下仲人をしてくれた会津藩士、佐川官兵衛を亡くしています。
梅津越・葛葉峠の戦い
6月14日、斎藤一(藤田五郎)がいた二番小隊は一番小隊を援護するため、街道を守りながら敵を牽制するよう命じられます。
ところが、斎藤一(藤田五郎)の上司にあたる二番隊小隊長・平田武雄が、薩摩の射撃に部下の斎藤一たちを見捨てて戦場を離れてしまいます。
部下だった斎藤一(藤田五郎)は大変だったと推測されますが、無事に進んで他の隊と合流しています。
三川内(三河内)の戦いで負傷
この戦いでは、斎藤一は東京日日新聞(明治10年8月23日付)に「藤田五郎」として名が載っています。
明治10(1877)年7月12日、第二小隊は半々に隊を分けます。
藤田五郎(斎藤一)率いる第二小隊の半小隊は、正面から敵を引き付けて進む危険な役目を引き受けました。
峠を越えて進軍し、最初の集落・焼尾で薩摩軍を撃退します。
が、その先、高床で銃撃に遭って、右の脇腹を負傷します。
藤田五郎(斎藤一)の半小隊が正面で敵を引き付けていたので、脇の間道から進んだ別の分隊が、高床を落としています。
負傷した藤田五郎(斎藤一)は、大分県佐伯市に出張してきていた陸軍病院に入院します。
帰りは品川港から
入院していた藤田五郎(斎藤一)は、8月15日に同じ佐伯市の波当津で隊に戻り、10月24日に白杵で汽船「愛宕丸」に乗り、10月28日に品川港に戻っています。
2年後の明治12(1879)年、西南戦争の功績で「叙勲7等金百圓下賜」と、勲章と百円を下賜された記録が残っています。
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復元された新橋停車場
新橋停車場鉄道歴史展示室
斎藤一(藤田五郎)が使った当時の新橋停車場は、大正12(1923)年の関東大震災で焼けてしまいます。
が、平成15(2003)年、当時新橋停車場があった同じ場所に、当時の建物が復元されました。
その一部が、鉄道歴史展示室になっていて、無料で見学できます。
当時の駅舎の基礎遺構がガラス越しに見られるようになっています。
また、明治当時の駅舎の錦絵や写真、当時の蒸気機関車の写真も展示されています。
斎藤一関連の展示はありませんが、斎藤一が使った当時の駅舎の様子や蒸気機関車の様子を知ることができます。
近未来的な汐留シティセンターの高層ビルが背後にそびえ立って、その足元にレトロな駅舎が復元されている、不思議な光景です。
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新橋停車場の歴史
新橋停車場は、明治5(1872)年10月に開業しました。
アメリカ人R.P.プリジェンスの設計でした。
停車場は、かつての老中で、日米修好通商条約にも署名した、播磨龍野藩(兵庫)・脇坂家の上屋敷跡に建てられました。
ここから横浜方面に向けて線路が伸びる先、現在の汐留シティセンターより南の方は、仙台藩の上屋敷(現在のロイヤルパークホテル付近)と、会津藩の中屋敷(現在のWINS汐留やイタリア街付近)の跡地です。
江戸時代に幕府から拝領していた各藩の屋敷は、ここ以外の藩の分もすべて明治政府に接収されていて、跡地は官公庁や大学、軍などの施設に利用されていました。
斎藤一たちが西南戦争に出征するために新橋停車場を使ったのは、開業から5年後の明治10(1877)年です。
その後、大正3(1914)年、東京駅が新設されてターミナル駅の機能がそちらに移り、それまで烏森駅と呼ばれていた駅が現在の新橋駅になります。
新橋停車場は、貨物専用駅となって「汐留駅」と名を変え、物流の拠点となりました。
大正12(1923)年、新橋停車場の駅舎は関東大震災の火災で焼けてしまいます。
平成3(1991)年から、再開発のための埋蔵文化財の発掘調査が行われ、旧新橋停車場駅舎とプラットホームなどの礎石が発掘されます。
平成8(1996)年、遺構が史跡「旧新橋停車場」として国の指定を受けます。
これを受けて平成15(2003)年、旧駅舎などが復元されました。
新橋停車場のプラットホーム
汐留シティセンター側に回ると、復元された当時のプラットホームを見ることができます。
このプラットホームから、斎藤一(藤田五郎)たち豊後口警視隊が蒸気機関車に乗り込んだんですね。
プラットホームの脇(パナソニック汐留美術館側)には、鉄道の起点だった「0哩(マイル)標」と、当時の線路が数メートルだけ、当時と同じ場所に再現されています。
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新橋停車場で営業しているビアダイニング・ライオン
2003年の復元当時から、中の店は何度か入れ替わり、今はビアダイニングレストラン・ライオンが入っていて、食事や宴会ができます。
ランチも夜もあります。
新橋は東京駅にも2駅(4分乗車)で着くなど、地方から上京した人にも便利なので、オフ会にもいいですね。
定休日 | 年末年始 |
営業時間 | 【月~金】 11:30~15:00 【月・火】 17:00~22:30 【水~金】 17:00~23:00 土・日・祝 11:30~21:00 |
住所 | 東京都港区東新橋1-5-3 旧新橋停車場 BEER DINING銀座ライオン汐留店 |
アクセス | JR新橋駅から徒歩5分 都営浅草線新橋駅から徒歩4分 |
関連サイト | ネット予約可能 ビアダイニング銀座ライオン汐留店(ぐるなび) ビヤダイニング銀座ライオン汐留店(ホットペッパー) ビアダイニング銀座ライオン汐留店(食べログ) |
新橋停車場周辺の新選組ゆかりの地・観光スポット
他のゆかりの地と少し離れていますが、比較的近い場所を紹介します。
金地院(近藤勇が建てた近藤周助の墓)
近藤勇が建てた、養父で天然理心流3代目の近藤周助の墓があります。
御朱印あり。
最勝院(箱館戦争後の隊士謹慎地)
箱館戦争後に降伏した隊士や幕臣が、江戸に護送された後この寺で謹慎しました。
現在はビルの地下と最上階で、参拝などは受け付けていません。
当時は現在より50メートルほど西の、芝公園グランド前交差点の北側付近にありました。