丹後の渡し跡は、新選組が五兵衛新田(現在の足立区綾瀬)から流山に向かう時に使った渡し場の跡です。
近藤勇や土方歳三も、この渡し場から流山に渡ったと言われています。
現在の埼玉県三郷市から、対岸の流山市へ向けて、江戸川を越える渡し場です。
ここでは、丹後の渡し跡を紹介します。
丹後の渡し跡のアクセス・基本情報
丹後の渡し跡のアクセス・基本情報
住所(流山側) | 流山市流山7丁目 |
アクセス(流山側) | 流鉄流山線平和台駅から徒歩11分 |
駐車場(流山側) | ケーズデンキ駐車場など |
公式サイト | 流山市観光協会「流山の江戸川渡し場」 |
住所(三郷側) | 埼玉県三郷市早稲田3丁目 |
アクセス(三郷側) | JR武蔵野線三郷駅から徒歩11分 |
駐車場(三郷側) | 早稲田公園駐車場など |
丹後の渡し跡の地図
丹後の渡し跡と新選組
五兵衛新田から流山へ
慶応4年3月6日、甲陽鎮撫隊と名を変えた新選組は敗戦して江戸に戻りました。
3月11日頃、永倉新八と原田左之助が新選組を脱退。
時期ははっきりしませんが、斎藤一は負傷兵などを率いて会津に向かいます。
近藤勇と土方歳三は、「大久保大和」「内藤隼人」と名乗り、慶応4年の3月末まで五兵衛新田(ごへえしんでん・現在の足立区綾瀬)に滞在し、隊士を募集していました。
が、新政府軍が2キロしか離れていない千住宿(せんじゅしゅく)まで迫ります。
衝突を避けるため、流山に移動することになります。
4月1日、五兵衛新田で最後に宴を開き、それまで駐屯した家に礼金を払って、夜に移動を始めます。
脇街道を使って、現在の埼玉県三郷市方面への移動です。
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江戸川を渡って分宿先へ
4月1日夜から2日明け方、この「丹後の渡し」を使って、新選組は流山に入りました。
本陣に入りきれなさそうな隊士たちは、丹後の渡し近くの光明院や流山寺へ分宿します。
近藤勇や土方歳三は、それより北の永岡家(通称・長岡屋)に本陣を置きます。
その後の流山での動きは、こちらの記事で詳しく書いています。
丹後の渡しを両岸から見てみる
丹後の渡し(三郷市側)
こちらは、三郷市側から見た丹後の渡しです。
新選組からすると、これから渡ろうとしている時の景色になりますね。
土手の上に標柱があります。
三郷市側は行ったのが3月上旬で、土手に菜の花が咲いていました。
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丹後の渡し(流山市側)
流山寺から江戸川の方に歩き、この石段を上ると丹後の渡し跡の標柱があります。
流山市側から見た、丹後の渡しです。
新選組からすると、渡ってきて後方を振り返った景色になります。
川を背に振り返ったところに標柱があります。
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丹後の渡しの歴史
丹後の渡しは公営の渡し場で、3艘の舟で渡していました。
新選組は200名以上いたので、3艘の舟で何度も往復して、時間もかかったのでしょうね。
昭和10年、流山橋がかかるまで使われていました。
丹後の渡し周辺の新選組ゆかりの観光スポット
流山寺
丹後の渡し場からすぐ。
流山で新選組隊士が分宿したと記録に残っているお寺。
光明院
流山寺の近く。
流山で新選組隊士が分宿したと記録に残っているお寺。
長流寺
近藤勇忌が行われているお寺。
分宿先という説も。