千葉県流山・野田の新撰組観光地・ゆかりの地

光明院(新選組隊士分宿の寺)御朱印あり|流山市の新選組ゆかりの地観光スポット

更新日:

光明院の「新選組隊士分宿の寺」看板

光明院の「新選組隊士分宿の寺」看板

光明院(こうみょういん)は、流山に来た新選組隊士が分宿した寺です。
「新選組隊士分宿の寺」という看板がかかっていて、御朱印にもその言葉があります。
ここでは、流山市の新選組観光スポット・光明院を紹介します。

Sponsored Links

流山市光明院のアクセスと基本情報

流山市光明院のアクセスと基本情報

住所

流山市流山6-651

アクセス

流鉄流山線平和台駅から徒歩10分

駐車場

あり

関連サイト

光明院(流山市観光協会)

流山市光明院の地図

流山市光明院と新選組

恩田家文書に残る「新選組隊士止宿先」光明院の名

光明院の参道

光明院の参道

光明院(こうみょういん)は、流山に来た新選組隊士が分宿した寺です。
本陣は北の方の近藤勇陣屋跡に置かれ、近藤勇・土方歳三などはそちらに宿泊。
入りきれない隊士は、この赤城山周りの光明院と流山寺などに宿泊しました。

東に1.5キロ離れた、思井(おもい)村の名主が書いた「恩田家文書」に、そのことが載っています。

江戸方歩兵380人から390人あまりは、去る1日より2日にかけて流山の光明院・流山寺そのほかを借りて止宿(ししゅく)していた。
長岡七郎兵衛(しちろべえ)方が本陣となり、この家に大将の大久保大和(近藤勇)と内藤隼人(土方歳三)の両人がおり、そのほかに大勢が止宿していた。
「恩田家文書」慶応4(1868)年4月3日の条より)

近藤勇が本陣を置いた「永岡家」(通称・長岡屋)は、「鴻池(こうのいけ)」という屋号を持っていて、江戸や大阪でも商売をしていました。
流山の「鴻池(こうのいけ)」で酒造りの采配を振るっていたのが、増村由太郎(ましむらよしたろう)という人。
この増村由太郎の菩提寺が、この光明院でした。
そんな縁もあり、永岡家つながりで新選組隊士の分宿先になったのかもしれません。

「鴻池(こうのいけ)」と増村由太郎のことや、流山での新選組の動きは、この本に詳しく書かれていました。

光明院の新選組見どころ:「新選組隊士分宿の寺」の看板

光明院の「新選組隊士分宿の寺」看板

光明院の「新選組隊士分宿の寺」看板

現在の光明院の本堂左脇には、「新選組隊士分宿の寺」という看板がかかっています。

近藤勇出頭後の流山の新選組隊士たち

光明院山門

光明院山門

慶応4年(1868年)4月3日、近藤勇が出頭した時のことは、以下の記事に詳しく書いています。

流山に残っていた新選組隊士たちは、甲陽鎮撫隊が敗戦して江戸に戻ってから募集した新兵が大部分でした。
4月3日、新政府軍と大砲を打ち合ったりした後、一部が脱走します。

残っていた隊士は、4月6日に会津に向けて移動を始めます。
主な街道を新政府軍が押さえていたので、現在の我孫子市から利根川を船で下って、銚子に向かっています。

(参考:「新選組と流山」流山市公式サイト

Sponsored Links

流山市光明院の御朱印

本堂左側の庫裡(くり)でチャイムを押して、出てきたお寺の方にいただきました。

「新選組隊士分宿の寺」という看板と同じ文が、御朱印にも入っています。
新選組という文字が入る御朱印は、ゆかりの寺社の中でも貴重です。

Sponsored Links

流山市光明院の新選組以外の見どころ

庚申塔

寛文6年(1666年)に立像されたもの。
新選組が流山に来る200年以上前からここにあった庚申塔です。

六地蔵

享保7年(1722年)建立。
新選組が流山に来るより150年近く昔からあった六地蔵です。

本堂の看板・一茶ゆかりの寺の句碑など

光明院本堂

光明院本堂

左側「新選組隊士分宿の寺」の看板がかかっている本堂。
右側には「一茶ゆかりの寺」という看板がかかっています。

現在近藤勇本陣跡を所有している、流山の酒造「秋元」に、かつて秋元双樹という俳人がいました。
小林一茶は秋元双樹の庇護を受けていて、よく流山に来て、秋元双樹と一緒に句を詠んでいました。
光明院はその秋元家の菩提寺でもあります。
境内には一茶の句碑も建てられています。

多羅葉(たらよう)の木

光明院の本堂遠景

本堂左側が多羅葉の木

本堂前の、幹が3本に別れた多羅葉(たらよう)の木。
市の指定記念物になっています。
別名はがきの木といい、葉の裏に爪などで引っかくと文字が書けます。

光明院が管理していた赤城神社に一足伸ばす

赤城神社の大注連縄

赤城神社の大注連縄

明治政府の政策で寺と神社が分けられるまで、光明院は隣の赤城神社の別当寺(べっとうじ・赤城神社を管理するための寺)でした。
別当寺が設けられているのは、格式の高い神社です。
寺と神社が分けられるまで、赤城神社は光明院と一体となっている形でした。

新選組が赤城神社でどうした、というはっきりした記録があるわけではありません。
ただ、ガイド本などで、光明院とセットで赤城神社もゆかりの地と書かれていることがあります。
明治以前には光明院とワンセットにされていた場所なので、「記録には光明院と残っているが、赤城神社も含まれているのでは?」ということなのかもしれません。

赤城神社のご朱印

赤城神社のご朱印。ご祈祷で人がいる時期のみ

赤城神社は、「赤城の山が洪水で流れてきた」という、「流山」の地名に元になった丘の上にあり、大注連縄(おおしめなわ)が有名です。
御朱印もありますが、普段は無人で、正月や例大祭、七五三など、御祈祷がある時期だけ受け付けています。

Sponsored Links

流山市光明院の歴史

光明院案内板

光明院案内板

光明院の創建年代は不明です。
庚申塔は江戸時代1666年のもの。
明治政府の政策で神社とお寺が分けられるまでは、隣の小山の上、赤城神社の別当寺(べっとうじ・赤城神社を管理する寺)でした。
真言宗のお寺。

流山市光明院周辺の新選組ゆかりの観光スポット

流山寺|御朱印あり

光明院と同時に、新選組が分宿したと記録に残っている寺。

丹後の渡し|標柱のみ

新選組が五兵衛新田(現在の足立区綾瀬)から流山に移ってくる時に、使った渡し場。
[nlink url="https://shinsengumi-kanko.com/nagareyama-noda/tangonowatashi/"}

Sponsored Links

-千葉県流山・野田の新撰組観光地・ゆかりの地
-,

Copyright© 新選組観光なび|ゆかりの地巡りを東京から日帰りで! , 2020 All Rights Reserved Powered by STINGER.