近藤勇陣屋跡は、甲陽鎮撫隊敗戦後の新選組が、流山に来て本陣を置いた場所です。
この本陣を新政府軍に囲まれ、近藤勇は「大久保大和」の名前で投降します。
この場所が、近藤勇と土方歳三の今生の別れの地となりました。
ここでは、流山の近藤勇陣屋跡を紹介します。
流山・近藤勇陣屋跡のアクセスと基本情報
近藤勇陣屋跡のアクセスと基本情報
住所 | 流山市流山2-109 |
アクセス | 流鉄流山線流山駅から徒歩4分 |
駐車場 | なし 流山市役所駐車場や、ナビパーク流山第2(30分100円)など |
関連サイト | 流山市観光協会「近藤勇陣屋跡」 |
近藤勇陣屋跡の地図
流山・近藤勇陣屋跡の様子
近藤勇陣屋跡の現在の様子
「近藤勇陣屋跡」の碑と、当時の土台石が残されています。
掲示板があり、流山での新選組についての展示がされています。
「新選組局長 近藤勇 副長 土方歳三 離別の地」と書かれています。
後ろに建つ蔵は、面影をしのぶために同時代からある「三河屋」の蔵を移築してきたもの。
観光用で、近藤勇たちがいた建物ではありません。
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近藤勇陣屋跡の当時の様子
蔵の建つ場所だけが新選組の陣屋だったわけではなく、このあたり一帯の広い土地が、本陣になっていた豪商の「永岡三郎兵衛」宅だったようです。
通称・長岡屋とされてきた場所ですが、実は「永岡三郎兵衛」の酒造家で、「鴻池(こうのいけ)」という屋号だったそう。
隣の「秋元稲荷大明神」も、元は永岡家の邸内にあるほこらでした。
永岡家(屋号・鴻池)は、桑名藩の御用商人でした。
桑名藩は新選組が京都にいた頃の京都所司代で、藩主は幕府方として箱館まで行き、桑名藩士は箱館戦争で土方歳三の部下として戦っています。
新選組と懇意にしていた桑名藩士も流山に常駐しており、そのあたりの関係で永岡家が新選組を受け入れたと思われます。
当時の永岡家の階段が、流山市立博物館に展示されています。
近藤勇や土方歳三も昇り降りしたのでしょうね。
流山での新選組の動き
新選組が流山に来るまで
鳥羽伏見の戦いの敗戦後、江戸に戻った新選組は、慶応4年3月1日に「甲陽鎮撫隊」と名を変えて山梨方面に行くことになります。
しかし、3月6日、甲州勝沼の戦いで敗戦して江戸に戻ります。
3月11日頃、永倉新八と原田左之助が近藤勇・土方歳三と袂を分かち、靖共隊を作って、新選組は分裂します。
斎藤一は負傷兵などを率いて会津に向かいます。
この頃、江戸城無血開城が決定。
近藤勇と土方歳三は、足立区綾瀬の金子五兵衛宅などに3月14日から4月1日まで滞在。
新たな兵を募ります。
一説では、弾丸などを製造していたとも言われます。
しかし、近くの千住宿(せんじゅしゅく)に官軍が侵攻してきたことから、4月1日、流山に移動します。
新選組、流山に行く
新選組は、現在の埼玉県三郷市にある「丹後の渡し」を使って、4月2日未明から午前にかけて、流山に渡りました。
「大久保大和」と名乗った近藤勇と、「内藤隼人」と名乗った土方歳三は、この「近藤勇陣屋跡」あたりにあった永岡家に本陣を置き、滞在します。
入りきれない隊士は、南の方の光明院や流山寺に分宿させます。
官軍が来るなら、自分たちが渡ってきた「丹後の渡し」などを使い、南の方から来ると警戒していたようです。
官軍に包囲された新選組流山本陣
4月3日、新政府軍が北方の「羽口の渡し」から渡ってきます。
午後3時頃、探索に来た薩摩藩士の有馬藤太が、この永岡家を訪ねます。
土方歳三が「内藤隼人」として応対し、「脱走歩兵を取り締まるため出張した幕府の者で、官軍に敵対するつもりではない」旨を伝えます。
有馬藤太は武器弾薬を差し出すように言って、いったん本隊の到着を待ちます。
午後5時頃、本隊が菊のご紋の御旗を振りかざし、三手に別れて包囲に入ります。
この時、飛地山(現在の流山市役所)にいた新兵から大砲が5,6発発射されます。
最初に敵意がないと抗弁していた後のこの敵対行動で、近藤勇は申し開きをしなければならなくなります。
このあたりの、流山~板橋での近藤勇については、あさくらゆう著「新選組を探る」の近藤勇の章に詳しく書かれています。
近藤勇の出頭・土方歳三との別れ
永倉新八がまとめた「浪士文久報国記事」という手記では、近藤勇は切腹を考えます。
しかしこの時まだ、ここにいるのが新選組だと知られたわけではありませんでした。
土方歳三が切腹を止めて、「偽名を使い、散乱した兵を取り締まるためにここにいたと申し開きをする」ことを提案します。
近藤勇は「大久保大和」の名で申し開きに行くことになります。
越谷宿(こしがやじゅく)に新政府軍の総督府が出張しているとのことで、そこへ出頭することになりました。
近藤勇は支度をして、午後10時過ぎに流山を出立します。
近くの矢河原(やっから)の渡しから江戸川を渡り、流山を後にします。
土方歳三は、他の隊士を連れて流山を脱出します。
これが、近藤勇と土方歳三の今生の別れになりました。
この本陣跡が「近藤勇・土方歳三離別の地」となっているのはそのためです。
近藤勇出頭以降の新選組の動き
出頭以降の近藤勇
近藤勇は越谷宿(こしがやじゅく)で、京で顔を見たことがあった者がいたため、ひそかに「近藤勇ではないか」と疑われます。
板橋宿(いたばししゅく)に行くように言われ、4月4日に「大久保大和」として板橋宿に到着。
元新選組から御陵衛士になり、薩摩と行動を共にしていた、加納鷲雄と清原清が呼ばれます。
加納鷲雄は、前年に師匠にあたる伊東甲子太郎が新選組に殺され、一緒にいた自分も殺されかけたため、京で近藤勇を襲撃したこともありました。
この二人の面通しで、大久保大和が近藤勇と確定します。
近藤勇の処置をめぐっては薩摩藩と土佐藩が対立します。
薩摩藩の有馬藤太(流山で捕縛に行った人)は、近藤勇を助命しようと動いていました。
しかし、坂本龍馬の暗殺が新選組の仕業と思われていたため、土佐側と、陸援隊士だった水戸藩の香川敬三が厳刑論を展開。
板橋宿平尾の一里塚で、慶応4年4月25日、近藤勇は斬首されます。
享年35歳。
首は京にさらされます。
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近藤勇が出頭した後の土方歳三
流山を脱出した土方歳三は、翌日4月4日に、江戸赤坂の勝海舟邸を訪れます。
勝海舟の日記に「土方歳三来る。流山顛末を云」と書かれています。
土方歳三は、軍事方の松濤権之丞(まつなみ ごんのじょう)に口添えの手紙を書いてもらいます。
「昨日不慮の事態があったが、勝海舟の命令で脱走兵の取り締まりをしていたので、新政府軍に異心はない」
という内容の、「大久保大和」を助命するための口添えです。
しかしこの頃すでに、「大久保大和=近藤勇」と見破られた後でした。
土方歳三はそれを知らないまま、新選組隊士・相馬主計に口添えの手紙を板橋に届けさせます。
そして新政府軍の目を盗んで、江戸から市川方面に脱出。
4月11日、現在の市川市国府台で、大鳥圭介たち幕臣と落ち合い、宇都宮、会津と転戦します。
近藤勇が処刑された4月25日には、会津に向かっているところでした。
のちに近藤勇の死を知った土方歳三は、会津の天寧寺に近藤勇の墓を建てています。
会津戦争敗戦後は蝦夷地に向かい、箱館戦争へ。
近藤勇の死の翌年、明治2年5月11日、土方歳三は箱館の一本木関門にて銃弾に倒れます。
享年35歳。
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近藤勇陣屋跡周辺の新選組ゆかりの地観光スポット
秋元稲荷大明神
近藤勇本陣跡のすぐ隣で、もともと長岡屋の敷地内にあった稲荷社。
本陣を置いた時、近藤勇と土方歳三が戦勝祈願したと伝わります。
ほこらの中から2012年、ここが永岡屋だったという棟札が見つかっています。
秋元
長岡屋のあたりをのちに買い取った酒造家。
今は酒のほか、新選組関係の土産物を売っています。
清酒「本陣長岡屋」や、新選組の手ぬぐいやはっぴ、凧など。
流山浅間神社
新政府軍がここの境内裏に本陣を敷いて、菊の紋の旗を立てました。
近藤勇陣屋跡からすぐ。
清水屋
近藤勇本陣跡をモチーフにした「本陣もなか」を売っている和菓子屋さん。
流山市立博物館
長岡屋にあった、新選組が来た当時の階段が展示されています。
流山での新選組に関する展示もあります。