港区の青山霊園には、元新選組隊士でのちに御陵衛士となった、近藤勇との因縁が深い加納鷲雄・篠原泰之進の墓があります。
また、旧幕府軍側の墓や新政府軍側の墓など、明治維新に関わった人々の墓や、歴史上の人物の墓も多くあり、桜の名所としても有名です。
この記事では、新選組や旧幕府軍側の人物、歴史上の人物を中心に、青山霊園を案内します。
青山霊園のアクセス・基本情報
青山霊園のアクセス・基本情報
住所 | 東京都港区南青山2丁目32-2 |
アクセス(事務所) | 銀座線外苑前駅から徒歩6分 |
アクセス(加納鷲雄の墓) | 千代田線乃木坂駅から徒歩5分 |
アクセス(篠原泰之進の墓) | 千代田線乃木坂駅から徒歩5分 |
駐車場 | 管理事務所前6台、霊園内通路(東三通り・西三通り) |
公式サイト | 青山霊園公式サイト |
青山霊園の地図
青山霊園の墓参り準備
青山霊園の地図と墓の区画番号をチェック
青山霊園はかなり広く、墓参りしたい人の区画番号を調べておかないと、まずたどり着けません。
また、地図なしで行くとかなり歩き回って迷うことになります。
この記事でリストアップした墓だけでも、一日では回り切れないほどです。
(写真がない墓は、一日で回り切れなかった墓です…)
事前に、都立霊園の公式サイトから青山霊園の地図(PDF)を印刷して、行きたい墓の場所をチェックしておくととても便利です。
自分で印刷するのが難しい場合、地図は、外苑前駅から近い側(案内図右側端)にある「青山霊園管理所」内のラックに印刷したものが置いてあります。
青山霊園墓参り用のアプリもあり
iPhone用しかないようですが、「掃苔之友青山」という青山霊園墓参り用のアプリがあります。
iPhoneのGPSを使って、今いる位置の近くに誰の墓があるか、歴史上の人物や有名人の墓を教えてくれます。
元新選組隊士(のちに御陵衛士)では、加納鷲雄の墓が載っています。
篠原泰之進(泰林親)の墓は、アプリには載っていませんでした(2019年6月現在)。
大鳥圭介など幕府軍側の人の墓も多く載っているので、iPhoneの方はダウンロードして行くと便利かもしれません。
入園は参りたい墓の近くからが便利
青山霊園の最寄り駅は、南側に近い乃木坂駅と、管理所に近い外苑前駅があります。
特に入園料などはなく、東西南北にある入口から入れます。
乃木坂駅からなら、東中央入口から入るのが近いです。
外苑前駅からなら、北中央入口から。
乃木坂駅に近いのは、元新選組隊士で御陵衛士となった、加納鷲雄(通廣)と篠原泰之進(泰林親)の墓。
それから、幕府軍側の秋月悌次郎や山川浩、秋山好古などの墓です。
外苑前駅の方が近いのは、霊園管理所(地図あり)、大鳥圭介、澤太郎左衛門、二本松藩戦死者の墓などです。
新政府軍側の大久保利通の墓も、外苑前駅が近いです。
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青山霊園と新選組隊士(御陵衛士)の墓
青山霊園には、伊東甲子太郎とともに新選組を抜けて御陵衛士となり、伊東甲子太郎暗殺後は薩摩についた2人の元新選組隊士の墓があります。
加納鷲雄(通廣)の墓
1種イ21-15。最寄りは乃木坂駅。
自然石でできた墓石には「加納通廣 妻喜舞子 之墓」と刻まれています。
裏面には漢文で、明治維新で奔走したこと、薩摩軍に所属して奥羽を討ったこと、明治には開拓使に勤めたことなどが書かれています。
加納鷲雄(通廣)
天保10(1839)年、伊豆生まれ。
江戸に出て、深川佐賀町(現在の江東区佐賀)にあった北辰一刀流道場に入り、伊東甲子太郎に師事します。
元治元(1864)年10月、師の伊東甲子太郎が新選組の隊士募集に応じた時、一緒に上洛して入隊します。
慶応3(1867)年3月、伊東甲子太郎とともに新選組を離脱して御陵衛士となります。
慶応3(1867)年11月、京・油小路で伊東甲子太郎が新選組に殺され、加納鷲雄は篠原泰之進を含む仲間7人で遺体を引き取りに行きます。
藤堂平助たち3人が待ち伏せした新選組に殺され、加納鷲雄は逃げて薩摩藩邸にかくまわれます。
1月後の慶応3(1867)年12月18日、加納鷲雄は篠原泰之進たち油小路での生き残りと共に近藤勇を襲撃し、右肩に重傷を負わせます。
その後は薩摩藩と行動を共にしていました。
翌慶応4(1868)年4月4日、「大久保大和」と名乗る人物が板橋宿に出頭してきます。
新政府軍の探索方をしていた加納鷲雄は、別室からのぞいて「大久保大和」が近藤勇ではないか確認するよう言われます。
のぞいて見ると近藤勇だったため、部屋に入って「近藤勇に間違いない」と証言し、近藤勇が捕まるきっかけになりました。
近藤勇は4月25日、板橋宿で斬首されます。
明治維新後は通廣(みちひろ)と名乗り、開拓使などに勤務して、明治35(1902)年10月、現在の東京港区麻布で亡くなります。享年64歳。
篠原泰之進(泰林親)の墓
2種イ12-3。最寄りは乃木坂駅。
小さな柱状の墓で、明治になってからの名前で「泰林親之墓」と刻まれています。
側面には「明治四十四年六月十三日卒 享年八十有四」と刻まれています。
篠原泰之進(泰林親)
文政11(1828)年11月16日、筑後国(福岡県)生まれ。
江戸で北辰一刀流を学び、加納鷲雄や伊東甲子太郎と交友していました。
元治元(1864)年10月、伊東甲子太郎とともに京に上り、少し間を置いて新選組に加入します。
慶応3(1867)年3月、伊東甲子太郎とともに新選組を抜けて御陵衛士となります。
慶応3(1867)年11月、油小路事件で伊東甲子太郎が新選組に殺された時、篠原泰之進は加納鷲雄たちとともに遺体を引き取りにいきます。
藤堂平助たち3人が殺されますが、篠原泰之進は逃げて薩摩藩邸にかくまわれます。
慶応3(1867)年12月18日、加納鷲雄たちとともに伏見で近藤勇を襲撃し、右肩に重傷を負わせます。
鳥羽伏見の戦いでは薩摩藩とともに戦い、その後赤報隊に入って江戸に向かって進軍します。
同じく新選組から御陵衛士を経て赤報隊に入った鈴木三樹三郎(伊東甲子太郎の実弟)や新井忠雄とともに、一度投獄されますが、嫌疑が晴れた後は新政府軍として戦っています。
明治維新後は父(婿養子)の旧姓・泰(はた)を使って秦林親(はたしげちか)と名乗り、大蔵省造幣使などに勤めます。
回顧録「秦林親日記」などの資料を残し、明治44(1911)年に現在の港区青山で亡くなります。享年84歳。
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青山霊園と幕末・徳川幕府軍側の墓
新選組とも共に戦った、徳川幕府軍側の人の墓もたくさんあります。
墓地の北側にある墓から順に並べています。
澤太郎衛門の墓
1種イ1-25。
「澤累代之墓」の右に「従四位 勲五等 澤太郎左衛門 妻 長子 墓」。
墓誌の一番右に「澤太郎左衛門」の名あり。
幕府海軍「開陽丸」副艦長。鳥羽伏見の戦いの時、将軍・徳川慶喜を江戸に運びました。
戊辰戦争では箱館に渡って「開陽丸」艦長、開拓奉行になりますが、室蘭で降伏します。
二本松藩戦死者慰霊塔、丹羽長国の墓
1種ロ7号14/15側。
彫刻のある大きな「丹羽家之墓」の左横に、「武将戦死者慰霊塔」「二本松藩士戦死者慰霊塔」。
丹羽長国は、戊辰戦争で幕府側で戦った、二本松の戦いの時の二本松藩藩主。
二本松藩士戦死者の慰霊碑は、長国の墓の脇にあり、戊辰戦争で幕府側で戦った二本松藩の戦死者を弔っています。
大鳥圭介の墓
1種イ2~3-2。「男爵大鳥圭介以降累代之墓」。
市川で合流して以降、土方歳三とともに幕府軍を率い、箱館で陸軍奉行となりました。
五稜郭で降伏、明治維新後は技術官僚や外交官などを勤めています。
中央奥が大鳥圭介と累代の墓で、左が妻、右は次男の墓です。
次男の次郎は、日露戦争の英雄・廣瀬武夫(青山霊園1種イ21-9に墓あり)と交流がありました。
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小野権之丞の墓
2種イ13-9。「小野氏」の文字の下に5人ほどの名、うち中央が「権之丞」。
会津藩公用人で、新選組とも交流があり、箱館まで転戦しました。
箱館戦争では病院掛頭取(箱館病院事務長)となり、敵味方の区別なく治療をしています。
明治22(1889)年4月2日死去。
外島機兵衛(としま きへえ)の墓
2種イ3-1。「外島家之墓」、左側面一番右に「外島機兵衛義直」の名。
会津藩公用人で、蛤御門の変の時、一橋慶喜に直談判しようとする新選組隊士を説得します。
新政府への恭順派でしたが、慶応4(1868)年3月7日、交渉中に病気で亡くなります。
秋月悌次郎の墓
1種ロ12-22。「従五位秋月胤永之墓」。
会津藩公用方で、文久3年、薩摩藩と同盟して長州藩を追い出す、8月18日の政変を主導しました。
会津戦争では米沢藩の協力を取り付けて、新政府軍に降伏を申し出ています。
立見尚文の墓
青山陸橋を渡った先の立山地区1種イ1-5。「陸軍大将男爵立見尚文 室美濃子 之墓」。
桑名藩士で、市川鴻之台(国府台)から土方歳三の元で軍監を勤めています。
島田魁たちと下館城に乗り込んで降伏させ、宇都宮城を攻略しています。
その後桑名藩の雷神隊隊長になり、越後・会津で戦って庄内で降伏しました。
明治維新後は西南戦争や日清戦争で戦い、陸軍大将になっています。
安藤太郎の墓
1種イ20-11。十字型が彫られた墓石中央に「安藤太郎 文子 之墓」。
幕府軍軍艦「回天」の乗組員で、明治2年3月25日、土方歳三や野村利三郎、相馬主計とともに宮古湾海戦に参加しています。
箱館戦争は負傷中に終わり、明治維新後は外交官になり、ハワイ総領事時代にキリスト教に改宗。墓も十字の形が彫られています。
山川浩の墓
1種ロ18-5。「山川家之墓」右側に、「男爵山川浩墓」。
会津藩若年寄で、会津戦争中、包囲された鶴ヶ城に入城するために、会津の伝統芸能・彼岸獅子を舞わせて城内にだけ味方だと知らせ、無事に入城したという逸話があります。
明治維新後は陸軍に入り、斎藤一(藤田五郎)の下仲人をしたり書を贈るなど交流が続きました。
小柳津要人(おやいづ かなめ)の墓
1種イ18-4。梵字の下に「小柳津 富澤」。
岡崎藩士で、伊庭八郎と同じ遊撃隊に入り、箱館戦争では土方歳三が戦死した5月11日の新政府軍総攻撃で負傷します。
「遊撃隊戦記」を残します。
明治には丸善の3代目社長となり、洋書販売に力を入れて「洋書の丸善」を確立しました。
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青山霊園と幕末の志士(新政府軍側)関係者の墓
新政府軍側の志士の墓も数多くあり、明治維新後に旧幕府軍側と関わった人もいます。
霊園北側にある墓から並べています。
周布政之助(すふ まさのすけ)の墓
1種イ1-38。「周布家之墓」。
長州藩政務役筆頭で、吉田松陰の門下生を抜擢し、桂小五郎や高杉晋作などが後に活躍する下地を作りました。
禁門の変を止めようとしましたが止められず長州藩が朝敵となり、実権を奪われ、責任を感じて元治元(1864)年に切腹します。
黒田清隆の墓
1種イ1-1/10。「黒田清隆 子孫之墓」の右に「正四位黒田清隆妻清子墓」。
箱館戦争で、旧幕府軍との最後の戦いの指揮を取り、降伏を受け入れた人物です。
榎本武揚の助命を強く主張して、そのために坊主頭になったこともあります。
のちに開拓長官となり、榎本武揚たち旧幕府軍の人材を登用し、総理大臣にもなります。
大久保利通の墓
1種イ2-15/17。「贈右大臣正二位大久保公墓」。
薩摩藩士。王政復古の大号令、版籍奉還や廃藩置県なども行った明治政府の中心人物です。
1878(明治11)年、馬車に乗っていたところを不平士族に暗殺されます。
広い墓所には碑や案内板、妻・満寿子や一族の墓のほか、暗殺事件の時一緒に殺された御者・中村太郎と、暗殺事件で馬車を止めるために足を斬られて殺された馬の墓もあります。
川路利良(かわじ としよし)の墓
1種イ4-1/4。「陸軍少将大警視正五位勲二等川路君墓」。
薩摩藩士で、上野戦争では彰義隊と戦い、会津戦争でも新政府軍として戦います。
明治維新後は警察制度を確立し、初代大警視(現在の警視総監に相当)となります。
この川路利良の警視庁に、新選組隊士の藤田五郎(斎藤一)と谷口四郎兵衛、沖田総司の甥(姉・みつの子)で新徴組隊士の沖田芳次郎、会津藩士など、旧幕府側の士族も多く集まってくることになります。
香川敬三の墓
1種イ4-25~26。「皇后宮大夫従一位勲一等伯爵香川敬三墓」。
薩摩藩士で陸援隊士。
坂本龍馬と一緒に暗殺された陸援隊隊長・中岡慎太郎の下で副隊長格でした。
戊辰戦争で東山道軍総督府大軍監となって江戸に進軍し、流山で近藤勇を出頭させて捕らえた人物。
明治維新後は宮内省の官僚になり、日露戦争の時には「皇后の夢枕に坂本龍馬が立ってバルチック艦隊戦勝を告げた」と宣伝しています。
西山(平井)加尾の墓
1種ロ14-9。「西山家平井家」。墓誌の最初に「西山加尾」の名。
土佐勤王党の平井収次郎の妹で、坂本龍馬の幼馴染・初恋の人と言われています。
坂本龍馬が土佐勤王党を脱退して以降、再会できなかったことについて「女子一生の痛恨」と書き残しています。
結婚相手で土佐勤王党員の西山志澄は、甲州で新政府軍として甲陽鎮撫隊と戦い、明治には警視総監になっています。
中牟田倉之助(なかむた くらのすけ)の墓
1種イ7-17/18。石塔のような特徴的な墓石が3基並ぶ中の真ん中と思われます。「徳雄院殿一應道貫大居士」。
新政府軍艦「朝陽丸」の艦長として箱館戦争で戦い、5月11日、旧幕府軍艦「蟠龍丸」に沈められます。
重傷で助け出され、明治維新後は海軍に勤めています。
後藤象二郎の墓
1種イ13-24。「正二位勲一等伯爵後藤象二郎之墓」。
土佐藩の参政で、坂本龍馬の船中八策に基づいて大政奉還建白書を提出した人物。
明治維新後は逓信大臣や農商務大臣などを勤めています。
相楽総三の墓
青山陸橋を越えた立山地区1種ロ3-34。「木村家之墓」の右隣の小さい墓石「天忠院教誉道順居士」。
墓所入口に「赤報隊隊長 正五位 相良総三墓所」と碑がありますが、これは墓石ではありません。
赤報隊の隊長で、「御一新」「年貢半減」を布告しながら東山道を進みました。
帰還命令に従わないなどの独断行動から「偽官軍」と見なされるようになり、下諏訪で斬首されます。
昭和3年に名誉回復され、正五位を賜っています。
赤報隊には元新選組隊士から御陵衛士となった、鈴木三樹三郎、篠原泰之進、新井忠雄もいました。
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青山霊園と歴史上の人物の墓
青山霊園には明治以降の歴史上の人の墓もあります。
霊園北側にある墓から並べています。
乃木希典の墓
1-ロ10-26。二つ並ぶうち右の先が尖った墓石で「陸軍大将乃木希典之墓」。
日露戦争で旅順要塞を攻略した武勲で有名になった陸軍軍人です。
最終的な階級は陸軍大将で、明治天皇が亡くなった後殉死します。
生まれたのは現在の六本木にあった長府藩上屋敷で、沖田総司が生まれた白河藩下屋敷の近所でした。
沖田総司の5~7年後に、同じ櫻田神社でお宮参りをしています。
忠犬ハチ公の碑と飼い主・上野英三郎の墓
一種ロ6-12。「東京帝国大学教授 農学博士 上野英三郎墓」と脇の小さな祠がハチ公の碑。
入口に「忠犬ハチ公の碑」という石碑があります。
上野英三郎は日本の農業土木、農業工学、農業農村工学の創始者で、大学内で脳出血で亡くなります。
飼い犬のハチが、上野英三郎の生前と同じように毎日渋谷駅に迎えに行って帰りを待ち続けたのが有名になり、ハチが亡くなった後は上野英三郎の墓の隣に石碑が作られました。
ハチの遺体は剥製となって国立科学博物館にあるため、ここに埋葬されているわけではありません。
犬養毅の墓
1種ロ8-1~14。「犬養毅之墓」。
昭和7年、5.15事件で殺害された総理大臣。
襲撃犯が来た時の「話せばわかる」という言葉も有名です。
廣瀬武夫の墓
1種イ21-9。「海軍中佐贈正四位廣瀬武夫墓」。
元・ロシア駐在武官で、ロシア人女性アリアズナとの逸話が有名です。
日露戦争の「旅順港閉塞作戦」の第二次で、魚雷を受けて避難する時、船底から戻らない部下を探しに行き、救命ボートに乗ろうとしたところを銃弾を受けて戦死します。
部下の身を案じて戦死した美談から、死後日本初の「軍神」の称号を得ました。
柔道二段で、嘉納治五郎に高く評価されており、大鳥圭介の次男・次郎とも交友がありました。
秋山好古の墓
1種イ19-2。「秋山家之墓」。
日本騎兵の父と呼ばれ、日露戦争で世界最強と言われたコサック騎兵に善戦し、黒溝台会戦では8千の騎兵で10万のロシア軍を退却させる戦果をあげました。
弟の秋山真之は、同じく日露戦争で海軍にいて、バルチック艦隊を破った名参謀として有名です。
弟の真之の墓も元は青山霊園にありましたが、今は鎌倉霊園に改葬されています。
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青山霊園と桜
青山霊園の花見時期
青山霊園は桜の名所として有名です。
ソメイヨシノが多いので、時期は3月下旬から4月上旬です(その年の気候によって異なります)。
青山霊園の桜の見どころ
霊園内を東西南北に走っている、十文字の道があります。
北中央入口~南中央入口を結ぶ南北の道と、東中央入口~西中央入口を結ぶ東西の道です。
その道沿いに桜並木があり、「桜のトンネル」と呼ばれています。
シートを広げるのではなく、そのトンネルの下を歩いて鑑賞する花見スポットです。
歩き疲れたら、園内のベンチで休むことができます。
ライトアップはされていません。
青山霊園の歴史
明治5年に作られ、明治7年に市民が使える公共墓地になりました。
会津藩出身の桐生氏が、現在は陸橋を渡った先の飛び地になっている、立山墓地を作ったのが始まりとされています。
元は美濃郡上藩藩主の青山家の下屋敷跡でした。
青山霊園付近の新選組ゆかりの地・観光スポット
沖田総司生家跡(白河藩下屋敷跡)|何もなし
沖田総司が生まれた白河藩下屋敷は、櫻田神社のあたりから現在の青山霊園の近くまでの広大な敷地を持っていました。
沖田総司はその下屋敷の藩士が暮らす長屋で生まれましたが、長屋が敷地内のどこにあったかは不明です。
櫻田神社(沖田総司がお宮参り)
沖田総司の氏神で、お宮参りした神社です。
沖田総司のほか、青山霊園に埋葬されている乃木希典将軍もここが氏神でお宮参りしています。
専称寺(沖田総司の墓)
沖田総司の墓があります。
墓地は普段は閉鎖されていて、年に一度の沖田総司忌の時だけ入れます。