東京都日野・立川の新撰組観光地・ゆかりの地

石田寺(土方歳三の墓)|日野市の新選組ゆかりの観光スポット

更新日:

石田寺(土方歳三の墓)

土方歳三の墓がある石田寺

石田寺(せきでんじ)は日野市にある、土方歳三の墓と顕彰碑がある寺です。高幡不動尊の末寺に当たります。
土方歳三生家(現在は土方歳三資料館)の近くにあり、土方歳三が墓参りした両親の墓のほか、代々の墓が作られていました。
命日近くの5月には歳三忌が行われています。
土方歳三の幼馴染で、宇都宮戦争で斬った兵の供養を頼んだ、土方勇太郎の墓もあります。

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石田寺のアクセス・基本情報と地図

石田寺のアクセス・基本情報

住所

日野市石田1-1-10

アクセス

多摩都市モノレール万願寺駅から徒歩5分

駐車場

数台
またはマイパーキング日野万願寺

御朱印

あり
1/1~7限定の七福神御朱印もあり

関連サイト

日野市観光協会石田寺

石田寺の地図

石田寺と土方歳三の墓・碑

石田寺にある土方歳三の碑

土方歳三義豊之碑

土方歳三義豊之碑

門を入って正面のカヤの木から右手の墓地方向に、「土方歳三義豊之碑」があります。
これは明治100年記念に1968年に、土方歳三の兄の子孫によって建立されました。

石田寺のカヤノキ

当時からある石田寺のカヤノキ

また、この正面のカヤの木は樹齢400年以上と言われています。
当時からあるので、土方歳三も、一族の墓参りに来た時に見ていたと思われます。

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石田寺にある土方歳三の墓

右が土方歳三の墓、左は一族の墓

右が土方歳三の墓、左は一族の墓

碑の前を通って墓地の中に歩み入ると、案内板の立っている墓があります。
ここが、土方歳三の墓と、土方家代々の墓です。
墓に向かって左側が土方家の墓、右の遺影があるのが土方歳三の墓です。
命日やひの新選組まつりの時には、ひっきりなしにたくさんの人がお参りしていました。

土方歳三の墓側面

「箱館一本木関門に於て戦死 享年三十五歳」とある。

側面に、箱館一本木関門と亡くなった場所の記載があります。

石田寺の土方歳三の墓には、箱館の土が安置

土方歳三の墓の案内板

土方歳三の墓の案内板

土方歳三の墓長い間、遺体の埋葬されていない墓でした。
土方歳三は箱館(函館の古い名前)で撃たれて亡くなり、首が晒されたりしないよう、隠すように遺体を埋めたので、正確な埋葬地はわからないままです。
ただ、五稜郭の一本松の下説や、函館の碧血碑に後年収めた説、碧血碑後方の塚説など、埋葬されたと言われる場所が箱館に何か所かありました。

平成17年、土方家のご子孫(土方歳三の兄のご子孫)が函館を訪れ、埋葬地だという説がある5か所の土を持ち帰りました。
そして平成17年4月、石田寺の土方歳三の墓に、埋葬地の土が収められました。
これをもって、土方歳三は136年ぶりに故郷に帰ったことになります。
土方歳三資料館に、土を採取する旅の写真が展示されていました。

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土方歳三が墓参りした御両親の墓

土方歳三の御両親の墓(左から3基目)

土方歳三の御両親の墓(左から3基目)

土方歳三の墓所に入って左側に、たくさんの墓石が並んでいます。
その左から3つめの小さめの墓石が土方歳三の御両親の墓です。
「慈眼院…」という法名が、 父の土方隼人義諄(通称伊左衛門)。
「清寿院…」という法名が、母の土方恵津です。

土方歳三の父は、土方歳三が母のお腹にいる時に結核で亡くなっています。
土方歳三の母は、土方歳三が6歳の時に結核で亡くなりました。

早くに亡くなった両親の墓で、生家からも近いので、土方歳三も墓参りに来たと思われます。

その左隣(左端から2つめ)、風化して読みにくいですが「龍幢院…」という法名が刻まれているのが、土方歳三の次兄、土方隼人義厳(通称喜六)の墓です。
次兄の喜六など、兄たちが土方歳三の父親代わりで、姉たちが母親代わりでした。

土方歳三の古い墓石も

観音堂裏手の土方歳三の古い墓石

観音堂裏手の土方歳三の古い墓石

現在の土方歳三の墓は、平成12年に建て替えられたものです。
それ以前の古い墓石が、観音堂の裏手にあります。
本堂ー観音堂ー古い墓石
一直線に並ぶような位置で、観音堂すぐ裏にある丸い墓石の裏側の区画にあたります。
風化のためか、石材で補強されるような形で、根本のところに土方家の家紋、左三つ巴紋があります。

三名の法名が刻まれた墓石です。

土方歳三の古い墓石

土方歳三の古い墓石

右から
孝心院貞受義喬居士   →伯父・土方丈八郎 文化10年9月没
歳進院殿誠山義豊大居士 →土方歳三 明治2年5月11日没
閑山院石翠義盛居士   →長兄・土方為次郎 明治16年3月没

となっています。

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マナーを守って墓参りを

土方歳三墓地の注意書き

土方歳三墓地の注意書き

歴史上の有名人のお墓全般に、他の墓に荷物を置いたり撮影のために踏み荒らしたり、生ものを供えられてカラスに荒らされゴミが散乱するなど、マナーの悪い参拝者に困ることもあったそうです。
土方歳三の墓はいつも公開されていますが、これはご遺族とお寺の方のご好意であって、迷惑行為に困った沖田総司や藤堂平助の墓は既に、非公開になっています。

土方歳三の墓にこの先もお参りできるように、

  • 他の墓所に荷物を置かない・踏み荒らさない
  • お線香は一束ではなく、数本ずつ使う(たくさんの人がお参りすると煙でいっぱいになるため)
  • ごみは持ち帰る
  • 食べ物を供えない

といったマナーを守って墓参りをしましょう。

土方歳三の幼馴染・土方勇太郎の墓

土方勇太郎の墓所の場所

土方勇太郎の墓所

土方勇太郎の墓所

土方歳三の墓所の裏手の区画に、土方歳三の幼馴染、土方勇太郎の墓があります。
カヤの木の根本の土方歳三の碑の向かいの道を入り、右から2番目の区画です。

正面の「先祖代々菩提」という墓石が、おそらく新しいもの。
左手にある墓誌が刻まれたものが、古い墓石と思われます。

土方勇太郎墓誌(左から5番目)

土方勇太郎墓誌(左から5番目)

墓誌の左から5番目に、「理順道証聖謨居士」という法名が刻まれているのが土方勇太郎です。

土方勇太郎

土方勇太郎は、八王子千人同心の家に生まれた、土方歳三の幼馴染です。
土方歳三より6歳年下で、同時に天然理心流に入門しました。

勇太郎は八王子千人同心の一人として、文久3年、将軍家茂の上洛に伴って上洛。
この時、京にいた土方歳三や井上源三郎と、源三郎の兄・松五郎とともに酒を酌み交わしています。

八王子千人同心は半農半武で、日光東照宮の火の番をするという「日光勤番」の任務がありました。
宇都宮戦争の後、日光勤番で日光にいた土方勇太郎は、土方歳三に呼び出されて今市に向かいます。
土方歳三は、宇都宮戦争の時に逃げ出そうとした味方の兵を斬ったことを話し、その兵の供養を土方勇太郎に頼んで金を渡しています。

土方勇太郎は明治3年、土方歳三より1年半後に病気で亡くなっています。

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石田寺の御朱印

御朱印と土方歳三しおり

石田寺御朱印

石田寺御朱印

門を入ってすぐ左手の建物(本堂から見てもすぐ左手)が庫裡(くり)という、お寺の事務所のような役割の場所です。
御朱印はそこでお願いしていただきます。300円でした。
石田寺特製、土方歳三のしおりもいただけました!
多摩八十八ヶ所霊場の86番札所なので、霊場巡りの方も訪れます。

「江戸・幕末・維新志士ゆかりの地でいただく御朱印ハンドブック」にも、石田寺の御朱印が載っていました。

石田寺に御朱印帳は見当たらない

御朱印帳は見当たらなかったので、高幡不動や八阪神社、高幡不動の池田屋さんなど、御朱印帳を頒布している場所で購入してから来るのがいいでしょう。

書き置き(既に書いてあるもの)になることも

お寺さんが法事などで忙しい時や、書ける方が出払っているなどの時は、既に半紙に書いてある状態のもの(書き置き)になることや、いただけないこともあります。
書き置きがないか聞いてみて、なかったら諦めましょう。

1/1~7は日野七福神の御朱印も

日野七福神の一神、福禄寿があり、1/1〜7日限定で日野七福神の御朱印授与も行われます。
新選組のホームグラウンド・日野の七福神を回ってみるのもいいですね。

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石田寺・他の見どころ

石田寺の由緒

1361年頃からお堂があったようですが、1564年に多摩川の洪水で観音像が流れ着いたのでそれを安置し、1593年に石田寺となりました。
現在は高幡不動尊金剛寺の末寺です。

本堂

石田寺本堂

石田寺本堂

入って左側が本堂です。
本堂左に見える黄色っぽい一軒家が庫裡で、ご朱印をいただく時はここ。

福禄寿

石田寺福禄寿

石田寺福禄寿

日野七福神のひとつ。御朱印は1/1〜7のみ。
福禄寿の斜め上の方に、土方歳三と近藤勇の絵姿が飾られていました。

北向観音

石田寺北向観音

石田寺北向観音

多摩川の氾濫で流れ着いた十一面観音像が安置されています。
勝負運、病魔退散、子育てにご利益ありとされています。

土方歳三の墓や位牌は他にもある

高幡不動尊大日堂の土方歳三の位牌

石田寺を末寺に置いている高幡不動尊の大日堂に、土方歳三の位牌があります。
菩提寺は高幡不動尊で、その末寺で生家から近い石田寺に墓を置いている形です。
高幡不動大日堂にはほかに、近藤勇、沖田総司、井上源三郎の位牌と、新選組隊士の大位牌があります。

板橋駅前の土方歳三の供養塔

明治になってから、生き延びた永倉新八が作った新選組隊士の供養塔です。
板橋宿で刑死した近藤勇が最初に埋葬された場所に作られました。
当時の墓石が残っています。
正面に近藤勇・土方歳三の名が大きく書かれ、側面には沖田総司たちの名もあります。
その脇の墓で、北海道の墓から分骨された永倉新八も眠っています。

荒川区の円通寺にある「死節之墓」

戊辰戦争の幕府側の死者を弔うために建てられた「死節之墓」があります。
その裏側に、箱館戦没者として土方歳三の名が刻まれています。
隣に彰義隊士の墓もあるので、彰義隊に入って死んだとされている原田左之助のお参りもできます。
箱館の一本木関門で戦死した土方歳三の遺体を運んだ、部下の小柴長之助が、晩年はこの寺で墓守をして過ごしました。
84歳の頃、日野の土方歳三生家を訪ねて、位牌の前で泣き崩れたと伝わっています。
その小柴長之助の墓も、同じ円通寺にあります。

会津天寧寺の土方歳三の墓

流山で近藤勇が捕まった後、土方歳三は宇都宮→会津と転戦します。
その途中で近藤勇の遺髪を手に入れ、会津の天寧寺に近藤勇の墓を作ってお参りしたと伝わります。
後年、土方歳三の墓もその隣に作られました。

函館称名寺の土方歳三の供養碑

函館称名寺に、土方歳三の供養碑があります。
当時新選組の屯所として使われ、箱館一本木関門で土方歳三が亡くなった後、供養碑が作られました。
称名寺は明治時代に大火で焼けたので、昭和48年に現在の碑が作られたものです。

函館の碧血碑

土方歳三が箱館・一本木関門で銃弾に倒れた後、部下だった小柴長之助が遺体を運びました。
五稜郭に葬られたとも言われています。
また、後日、改葬して碧血碑に遺骨が納められたとも言われています。

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石田寺周辺の新選組観光スポット

とうかん森

土方歳三が幼少期に遊んだ森の名残。土方歳三が産まれた時の生家の近くにありました。
2019年に、当時からあった稲荷神社が返納され、今後は市の公園になることが決まっています。

北川原公園

とうかん森の北東に、土方歳三誕生時の生家があったと伝わっています。
碑も案内板もありませんが、北東にあたるのは北川原公園のグラウンドあたりと思われます。

土方歳三資料館|第1・3日曜のみ

土方歳三が12歳の時、多摩川の氾濫で生家がとうかん森近辺からこの資料館の位置に移転しました。
その生家跡で、土方歳三の兄の子孫が運営する資料館です。
4~5月は、愛刀・和泉守兼定の刀身公開で毎週のように開館するので、公式サイトで開館日をチェックしてから行くといいですよ。

石明神社

土方歳三が生まれた石田村と隣村の氏神だった神社
お宮参りに行ったかもしれませんね。

高幡不動方面に行くなら

徒歩5分→多摩モノレール線万願寺駅から1駅→高幡不動駅下車。

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