南千住の小塚原回向院は、新選組隊士・横倉甚五郎が、獄中死した後最初に埋葬された場所です(墓石なし・後に八王子の大法寺に改葬)。
また、小塚原刑場で首を晒された雲井龍雄(永倉新八の友)の古い墓石があります(後に故郷に改葬のため墓石のみ)。
他にも吉田松陰の古い墓石や橋本佐内の墓など、幕末の志士の墓も多くあり、解体新書の解剖が行われた碑もあります。
ここでは、小塚原刑場に隣接し刑死人や獄死人の供養を行ってきた、小塚原回向院を紹介します。
小塚原回向院のアクセス・基本情報
小塚原回向院のアクセス・基本情報
住所 | 東京都荒川区南千住5-33-13 |
アクセス | JR/日比谷線南千住駅から徒歩3分 |
駐車場 | なし 周辺コインパーキング タイムズ 南千住第6(30分200円)など |
関連サイト | 荒川区公式サイト「小塚原回向院」 |
小塚原回向院の地図
小塚原回向院と横倉甚五郎
新選組隊士・横倉甚五郎は、箱館の弁天台場で降伏後、東京に送られます。
そして伊東甲子太郎の暗殺容疑と、坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺容疑で、伝馬町牢屋敷で取り調べを受けます。
明治3(1870)年8月15日に獄中死し、遺体は獄死者も葬っていたここ、小塚原の回向院(の前身の常行堂)に一度葬られます。
その後、故郷・八王子の大法寺に改葬されたため、現在は墓は小塚原回向院にはなく、古い墓石も残っていません。
横倉甚五郎
八王子の天然理心流門人。
元治元(1865)年の近藤勇による隊士募集で新選組に入隊しました。
伊東甲子太郎を暗殺した油小路事件では、大石鍬次郎たちとともに出動しています。
戊辰戦争では土方歳三に付き従い、会津を経て箱館へと転戦しました。
土方歳三が救援に行こうとしていた弁天台場で戦っており、その後降伏します。
謹慎していましたが、伊東甲子太郎暗殺容疑と、坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺容疑で取り調べを受けます。
そして明治3(1870)年8月15日、伝馬町牢屋敷で獄中死します。
享年37歳でした。
遺体は一度小塚原回向院(当時は常行堂)に葬られた後、故郷の八王子・大法寺に改装され、そちらに墓があります。
弁天台場での降伏時の辞世の句が残っています。
「義のために つくせしことも 水の泡 打ちよす波に 消えて流るゝ」
小塚原回向院と永倉新八の友・雲井龍雄
永倉新八が米沢に援軍を呼びに行った時に出会った友・雲井龍雄の古い墓石があります。
小塚原回向院の墓地は、右手の史跡エリアと左手の一般の檀家の墓に別れています。
雲井龍雄の墓は、史跡エリア右側中央寄りです。
雲井龍雄は政府転覆を企んだ疑いで斬首の後、隣接していた小塚原刑場で晒し首にされ、高札でそれを知った永倉新八が駆けつけて慟哭した逸話があります。
雲井龍雄と永倉新八については、延命寺の記事に詳しく書いています。
雲井龍雄は、小塚原の刑死人や獄中死した人を弔っていたこの小塚原回向院(当時は常行堂)に一度埋葬されます。
明治16年に谷中霊園に改葬、さらにその後故郷の米沢・常安寺に改葬され、現在ここには当時の墓石だけです。
永倉新八は大小の刀を預けるほど雲井龍雄を信頼しており、刑死を知って小塚原刑場に駆けつけ、首級に会って慟哭し、後年には米沢に雲井龍雄の妻子を訪ねていっています。
それだけの思いがあるので、記録には残っていませんが、小塚原回向院の古い墓石にも永倉新八が墓参りしていてもおかしくないですね。
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小塚原回向院の御朱印
小塚原回向院には、御朱印に関する注意書きが貼ってありました。
御朱印対応(御朱印帳への墨書きのこと?)は平日のみ。
土日祝日は13時以降、あらかじめ用意した書き置きで対応。
すべての日で、12~13時は昼休み。
という内容でした。
小塚原回向院の御朱印は1種類です。
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小塚原回向院と幕末の志士の墓
吉田松陰の古い墓石
小塚原回向院の墓地の史跡エリア左奥に、吉田松陰の古い墓石があります。
吉田松陰は安政6(1859)年10月27日、伝馬町牢屋敷で斬首され、一度この小塚原回向院(の前身の常行堂)に葬られます。
小塚原回向院は小塚原刑場で刑死した人だけでなく、牢屋敷で刑死したり獄死した人も弔っていました。
その後文久3(1863)年に松下村塾門弟だった高杉晋作たちによって、長州藩の別邸があった、現在の東京都世田谷区若林に改葬されます。
明治15(1882)年、改葬された場所に松陰神社が創建されました。
最初に葬られた小塚原回向院には今も、当時の墓石が残っています。
荒川区登録記念物です。
吉田松陰
長州藩士。叔父が開いていた松下村塾を引継ぎ、数多くの塾生を志士として輩出し、明治維新の精神的指導者と言われます。
門人には双璧と呼ばれた高杉晋作と久坂玄瑞をはじめ、伊藤博文、山縣有朋たちがいて、松下村塾の前に勤めていた藩校・明倫館では桂小五郎にも教えていました。
安政の大獄で投獄され、評議で自分から老中暗殺計画があったことを告白したため、安政6(1859)年10月27日、伝馬町牢屋敷で斬首されました。
享年30歳。
頼三樹三郎の墓
吉田松陰の墓のすぐ隣にある、「鴨崖墓」と号を彫られた墓が、頼三樹三郎の墓です。
頼三樹三郎は近藤勇も愛読した「日本外史」の著者・頼山陽の三男です。
後に吉田松陰と同じ松陰神社に改葬されたため、遺骨はここにはなく、当時の墓石のみです。
荒川区登録記念物です。
頼三樹三郎
頼三樹三郎は頼山陽の三男で、頼三樹八郎ともいい、号を鴨崖といいます。
徳川幕府が朝廷を軽視することに抗議して寛永寺の石灯篭を壊し、江戸で通っていた私塾を退学になります。
その後勤王の志士として活動し、尊王攘夷の気風の強い水戸藩出身の一橋慶喜の擁立を求めて朝廷に働きかけます。
孝明天皇が幕府の頭を飛び越えて直接水戸藩に勅命を下した「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」に関わり、この密勅が幕府の権威を失墜させたことで、安政の大獄のきっかけとなります。
安政の大獄で捕らえられ、伝馬町牢屋敷で橋本左内たちとともに斬首されます。
享年35歳でした。
桜田門外の変の実行者たちの墓
吉田松陰の墓の手前には、安政の大獄で吉田松陰を処刑に追いやった井伊直弼を、桜田門外の変で暗殺し、その後自害、斬首などで亡くなった志士たちの墓があります。
指導者の関鉄之助や、井伊直弼の首を取った有村次左衛門の墓もあります。
関鉄之助の情婦で新吉原の遊女「瀧本」の墓と、「烈婦瀧本之碑」もあります。
桜田門外の変で関鉄之助が逃亡した後、瀧本は共謀者として捕らえられて拷問にかけられましたが、関鉄之助の行方を一言も漏らさないまま獄中死しました。
写真がうまく撮れていないのですが、上にある題字(篆額)は渋沢栄一の書です。
橋本左内の墓と景岳橋本君碑
墓地の右奥に、屋根の下にあるのが橋本左内の墓です。
元は「黎園(れいえん)」と書いてあったそうですが、風化して読めなくなっています。
橋本左内が斬首になった後、福井藩が小塚原回向院に玉垣もある大きな立派な墓を建てました。
しかし、町奉行に気づかれ、罪人に立派な墓を建てるのはいかがなものかと求められたため、簡素な墓に作り変えたのが現在残っている墓石です。
橋本左内が故郷の福井・善慶寺に改葬された時、この墓石も一度福井に移りましたが、明治に故郷で新しい墓が作られてしばらく後、小塚原回向院に戻ってきました。
そのため、現在は空墓です。
墓の手前には橋本左内の碑「景岳橋本君碑」があります。
「景岳」は橋本左内の号です。
墓も碑も、荒川区登録有形文化財です。
橋本左内
福井藩士で医師、思想家、志士。
大阪で医学を学んで藩医になった後、江戸で蘭方医学を学びました。
藩医から福井藩主・松平春嶽の側近に転じて、西郷隆盛、藤田東湖、横井小楠などと交流しました。
尊王攘夷の気風の強い水戸の一橋慶喜の擁立を働きかけます。
安政の大獄で幽閉され、安政6(1859)年10月7日、伝馬町牢屋敷で斬首されました。
享年26歳でした。
西郷隆盛とは、一橋慶喜を将軍にしようと共に奔走した仲で、西郷隆盛の物真似をして周りを笑わせたなどの逸話があります。
西郷隆盛は明治10年に西南戦争で自決した時も、橋本左内の手紙を手文庫(漆塗りの小箱)に入れて持っていました。
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小塚原回向院の幕末以外の墓
磯部浅一・妻登美子の墓
史跡エリアの墓所入ってすぐ左に、2.26事件で計画・指揮・実行を行って銃殺刑となった磯部浅一(いそべ あさいち)とその妻・登美子の墓があります。
相馬大作・関良助供養碑
文政4年(1821)に起きた、津軽藩主暗殺未遂事件の主犯で小塚原刑場で斬首された、相馬大作(下斗米将真)と関良助の供養碑が、墓地右側手前にあります。
相馬大作事件
弘前藩主の津軽氏は、盛岡藩主の南部氏の一氏族で家臣筋ながら、挙兵して肥沃な津軽平野を支配し、豊臣秀吉に認められて大名となりました。
対ロシアで北方警備を命じられて従四位下の地位を賜った津軽氏が、家臣筋でありながら南部氏より上の地位についたことで不満が噴出していました。
盛岡藩士の相馬大作(本名・下斗米秀之進/しもとまいひでのしん)は弘前藩主の津軽寧親(つがる やすちか)に「辞官隠居しないなら暗殺する」旨の果たし状を出しました。
聞き入れられなかったので、参勤交代で藩に戻るところを大砲や銃で待ち構えましたが、密告で計画が知られて津軽寧親が別の道を通ったので失敗します。
暗殺が失敗したため、相馬大作と名を変えて江戸に移り住みますが、弘前藩御用人の笠原八郎兵衛に捕まります。
1822年(文政5年)8月に小塚原刑場で斬首されます。
同じく実行犯の関良助も小塚原刑場で斬首されました。
相馬大作は平将門の子孫の相馬氏の血筋でした。
鼠小僧、片岡直次郎、高橋お伝、腕の喜三郎の墓
入口近くに悪役4人組と言われる、江戸時代に小塚原刑場などで処刑された有名な罪人の墓があります。
左から、大名屋敷を専門に盗みを働いた鼠小僧次郎吉、ゆすり・たかりの小悪党で歌舞伎の題材にもなった片岡直次郎、日本で最後に斬首になった殺人犯の高橋お伝、侠客で喧嘩で斬られた腕を子分に切り落とさせた「腕の喜三郎」の墓です。
鼠小僧次郎吉は、本当の墓は墨田区の回向院(元は小塚原回向院の本院)にあります。
小塚原回向院の墓は、義賊としての鼠小僧に恩義を受けた人々が建てたと伝わります。
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小塚原回向院の境内
小塚原回向院と観臓記念碑
小塚原回向院に入って右手に、解体新書の碑「観臓記念碑」があります。
蘭方医の杉田玄白、前野良沢、中川淳庵たちが、「解体新書」の原書「ターヘル・アナトミア」の解剖図が本当かどうか検証するため、明和8(1771)年3月4日、ここ小塚原回向院(の前身の常行堂)で刑死者の腑分けを行いました。
実際に見比べて、「ターヘル・アナトミア」の解剖図のあまりの正確さに驚き、これを翻訳することに力を注ぎます。
安永3(1774)年、「解体新書」が発行されました。
碑は、医学の発展の元になった、ここで行われた腑分けを記念して建てられています。
荒川区登録有形文化財です。
吉展地蔵尊
小塚原回向院は昭和38(1963)年に起きた誘拐事件で亡くなり、同じ荒川区の円通寺墓地で遺体が見つかった、村越吉展ちゃん(4歳)の菩提寺です。
吉展ちゃんの冥福を祈り、入口付近に吉展地蔵尊があります。
小塚原回向院の資料館
「資料館がある」というような看板がないので、知らずに帰ってしまったのですが、小塚原回向院には「資料館」というより「展示室」のようなものが、建物内にあるようです。
小塚原刑場で処刑に使われた刀や髑髏などの刑場関係資料が展示してあります。
法事や寺の行事など、お寺の忙しさによっては見学できない日も多いようなので、見たい方はお寺の窓口で尋ねてみるといいかと思います。
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小塚原刑場と小塚原回向院の歴史
慶安4(1651年)年、当時の小塚原町に小塚原刑場が作られます。
その9年後には千住宿に加えられ、宿場町の一部になります。
大和田刑場(八王子市大和田町)、鈴ヶ森刑場(品川区南大井)とともに、江戸の三大刑場となりました。
現在の延命寺あたりに仕置き場があり、磔刑(はりつけ)・火刑・梟首(獄門・斬首の後のさらし首のこと)が行われました。
また、日本刀は人を斬らないと切れ味がわからないと言われており、罪人の死体で試し斬りが行われていました。
最初のうち、罪人の埋葬がいい加減で臭気がひどく、野犬やイタチに食い荒らされて地獄のような光景になっていました。
これを現在の墨田区両国の本所回向院の住職・弟誉義観(ていよ ぎかん)が見て、罪人の供養をしようと1667(寛文7)年に、小塚原刑場に隣接して常行堂というお堂を創建しました。
これが小塚原回向院の始まりです。
常行堂では小塚原刑場で刑死した人だけでなく、牢屋敷で刑死した人や獄中死した人、行き倒れた無縁仏などを供養していました。
寛文9年(1669年)、浅草にあった19の火葬寺が、臭気の問題で小塚原に移転してきて、江戸の葬祭場になりました。
元禄11(1698)年、現在隣の延命寺にある題目塔が、京の商人・谷口氏によって建てられます。
明和8(1771)年、ここで杉田玄白や前野良沢によって腑分けが行われます。
寛保元(1741)年、現在は隣の延命寺にある首切地蔵が、刑場入口に建てられます。
明治6(1873)年、西欧の人権基準に配慮する必要が出てきたため、小塚原刑場は廃止されます。
昭和57(1982)年、常磐線の線路工事のため境内が分断され、線路南側が延命寺として独立します。
平成10(1998)年10月30日、常磐新線の工事中に刑場時代の105人分の頭蓋骨が出土しています。
小塚原回向院周辺の新選組ゆかりの地・観光スポット
延命寺
昭和57年に常磐線の工事で小塚原回向院の敷地が分断され、線路南側に分離独立した寺。
江戸時代の仕置き場は、延命寺付近にありました。
小塚原刑場入口にあった首切地蔵と題目塔が、線路工事などで場所を変えたものの今も残っています。
また、永倉新八の友・雲井龍雄の首がさらされ、永倉新八が嘆いた場所でもあります。
円通寺
幕府軍戦死者を弔う「死節之墓」があり、近藤勇、土方歳三、野村利三郎の名が載っています。
原田左之助も入隊していた彰義隊の墓もあり、彰義隊激戦地・寛永寺の黒門も移築されています。