万願寺の渡しは、日野の石田村と国立の青柳を結ぶ多摩川の渡し場でした。
土方歳三が、石田村から谷保の本田家に書の手習いに通う時、この渡し場を利用しています。
日野側・国立側の堤防上にそれぞれ案内板があり、日野側は少し内陸に入った「万願寺の渡し公園」にも案内板があります。
万願寺渡船場跡・万願寺の渡し公園アクセス・基本情報
万願寺渡船場跡・万願寺の渡し公園アクセス・基本情報
住所(日野側) | 日野市石田441-41 |
日野側アクセス | 多摩モノレール線万願寺駅から徒歩11分 |
住所(国立側) | 国立市泉3-14-30 |
国立側アクセス | JR国立駅南口またはJR矢川駅から国16-3系統「国立操車場行」バス乗車、国立泉団地入口下車徒歩9分 |
駐車場 | なし |
関連サイト | 日野市観光協会「王手は日野の万願寺」 |
万願寺渡船場跡・万願寺の渡し公園の地図
土方歳三が使った万願寺の渡し
万願寺の渡しは、土方歳三が生まれた日野の石田村と、対岸・国立の青柳を結んでいます。
国立の青柳から少し行った谷保に名主・本田家があり、土方家の親類で、医師・書家として知られていました。
土方歳三は書を習いに下谷保村の本田家まで通っており、その後もよく出入りしていました。
その手習いに通う時、石田村から谷保までは、万願寺の渡しを使っています。
谷保の本田家にはのちに近藤勇も出入りするようになり、書家でもある本田覚庵に、大国魂神社に奉納した巨大扁額(畳13畳分・現存せず)を書いてもらっています。
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万願寺渡船場跡の日野市側
万願寺の渡し跡は、今の中央自動車道が多摩川を越える多摩川橋の脇にあります。
日野市側からは多摩川に向かって中央自動車道の左手です。
堤防への石段を登り、振り返ると万願寺渡船場跡の案内板があります。
案内板では土方歳三について特に触れられていません。
日野市側は万願寺の渡し公園にも案内板が
上の写真で、堤防に上がる階段斜め向かいの道に入り、すぐ右に曲がると、左手に万願寺の渡し公園があります。
ここにも、万願寺の渡しに関する案内板があります。
案内板では土方歳三について特に触れられていません。
この渡し場が、江戸城防備の上で重要な意味を持っていたことが解説されています。
徳川家康は、江戸が敵に攻められた時のことを考え、主要な川に橋をかけさせず、渡し場として運用しました。
この渡し場が「王手は日野の万願寺」と言われていたのは、江戸が敵に攻められたら、多摩川を渡さずにここで食い止めようということ。
そのような土地柄だからこそ、「八王子千人同心」のような半士半農の武力が置かれ、天然理心流のような剣術も盛んになり、江戸や徳川家を守るという気風がありました。
そんなところからも、新選組が生まれる精神的な土壌が培われていったと思われます。
万願寺の渡しの国立市側
国立市側から見た万願寺の渡し跡は、多摩川に向かって中央自動車道の多摩川橋の右手です。
川原にグラウンドがあって、川までかなり遠い感じです。
堤防へのスロープを登って川に背を向けると、トイレの前に案内板があります。
案内板では土方歳三について特に触れられていません。
地元の足となった万願寺の渡し
万願寺の渡しは、江戸時代初期、甲州街道を日野宿に向かう公式の渡し場でした。
しかし、多摩川の氾濫があったりしたので、日野の渡しが新たに公的な渡し場になりました。
万願寺の渡しは、その後は地元の足として大正15年まで日野・国立あたりの行き来に使われています。
日野側の案内板に「万願寺の渡しは引き続き作場渡しとして利用されていた」とあります。
作場渡しというのは、農地(作場)が川向うにある地元の人が、農作業のため行き来する足として日常的に使われたということ。
多摩川は度重なる氾濫によってよく流れる道筋が変わったため、自分の家の農地が川の向こうになってしまうこともあったようです。