試衛館道場跡は新宿区にある、近藤勇の天然理心流道場の跡です。
現在は標柱と、近くにあった正一位稲荷神社(通称・試衛館稲荷)だけが残っています。
この記事では、試衛館跡について見ていきます。
試衛館道場跡のアクセス・基本情報
試衛館道場跡のアクセス・基本情報
住所 | 東京都新宿区市谷柳町25 |
アクセス | 大江戸線牛込柳町駅から徒歩3分 |
駐車場 | 周辺コインパーキング タイムズ ファミリーマート牛込柳町駅前 |
関連サイト | 日野市観光協会「試衛館」 |
試衛館道場跡の地図
現在の試衛館道場跡
新宿区牛込柳町に残された標柱
新宿区の牛込柳町に、「試衛館跡」の標柱が残されています。
周辺は住宅街で、道場近くにあった稲荷神社以外は当時をしのばせるものはありません。
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試衛館稲荷(正一位稲荷神社)
通称「試衛館稲荷」、正式には「正一位稲荷神社」という神社があります。
地元ではずっと「稲荷のあるあたりに道場があった」と伝わっていたそう。
老朽化のため、現在は囲いの外から見るだけです。
この試衛館稲荷は350年前からあると伝わっています。
昔の人は折々に近くの神社で手を合わせるので、新選組メンバーもお参りしたと思われます。
試衛館跡の場所に関する議論
試衛館跡は「柳町」にあったと言われ、当初、小石川の柳町にあった説と、市ヶ谷の牛込柳町にあった説がありました。
明治初期に永倉新八が書いた「浪士文久報国記事」が平成に発表されて、現在標柱がある市ヶ谷の柳町で間違いないということになりました。
試衛館にいた新選組ゆかりのメンバー
道場主の近藤勇と門弟
試衛館にはまず、道場主の近藤勇がいました。
天然理心流4代目として、3代目近藤周助の養子に入って継いだ道場です。
ほかに、のちの新選組メンバーの中では、土方歳三、沖田総司、井上源三郎が、最初から天然理心流で剣を学んだ門弟。
山南敬助と斎藤一は、他流派を学んだ後で天然理心流に来た門弟でした。
山南敬助は、小野派一刀流や北辰一刀流を学んだ剣士ですが、何度も多摩などの天然理心流の出稽古に行って教える立場になっていることから、食客ではなく門弟扱いだったと思われます。
斎藤一は無外流剣術とも言われています。
永倉新八が書き残した「浪士文久報国記事」や、小島鹿之助が書いた「両雄士伝」で、試衛館にいたとあります。
のちに御陵衛士になった新選組隊士・阿部十郎も、斎藤一を沖田総司と同流派と見なしていると取れる文章を残しています。
しかし斎藤一は伝通院での浪士組結成時(文久3年2月5日)には参加しておらず、浪士組が「京に残留したい」という嘆願書を3月10日に出した時には署名しています。
このことから、斎藤一は何かの事情で別行動で上洛して新選組に加わったとされています。
試衛館に住んでいた門弟や食客の武具を、近藤勇が養父・近藤周助に頼んで送ってもらったことがありました。
この武具を送ってもらうリストに斎藤一の名がないことから、斎藤一は試衛館に住んでおらず、通いの門弟だったのではと言われています。
また、実は試衛館にはいなかったという説もあります。
食客だった永倉新八、原田左之助、藤堂平助
永倉新八と原田左之助、藤堂平助は、他流派で学んでいましたが、食客として試衛館にいました。
原田左之助は永倉新八が「浪士文久報国記事」に書いた試衛館メンバーから名前が漏れていますが、伝通院での浪士組結成の時には、試衛館メンバーと同じ組に記載されています。
ただ、永倉新八は試衛館から京に武具を送ってもらっていますが、原田左之助と藤堂平助はその記録がありません。
このことから、原田左之助と藤堂平助がどの程度試衛館に出入りしていたかは不明となっています。
試衛館に出入りしていた伊庭八郎
他に、試衛館に出入りしていたとされる人物として、のちに箱館戦争で土方歳三とともに戦う伊庭八郎がいます。
近藤勇と交流のあった福地桜痴(ふくちおうち)から弟子が聞き書きしたエピソード「剣豪秘話」の中で、「三日にあげず遊びに来ている伊庭八郎」と書かれています。
桂小五郎は出入りしたことがあるの?
桂小五郎が試衛館に出入りしたという記録は特にありません。
桂小五郎は、試衛館から歩いて30分ほどの近くの「練兵館」という道場にいて、「練兵館」に試衛館が、他流試合の助太刀を頼んだことがありました。
助っ人に来たのは桂小五郎ではないのですが、小説や創作物、ドラマなどで、ここを脚色して顔見知りだった設定になっていることがあります。
練兵館とは交流試合なども行われていたと言われていることも、顔見知り設定の後押しをしているようです。
練兵館
練兵館は靖国神社のあたりに建っていて、明治に靖国神社建設のために移転しました。
靖国神社南門の近くに碑が残っています。
桂小五郎のほか、高杉晋作、伊藤博文なども練兵館の門下生でした。
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試衛館に関するエピソード
近藤勇と交流のあった福地桜痴(ふくちおうち)から弟子が聞き書きした「剣豪秘話」に、当時の試衛館のエピソードがいくつか残されています。
質素だが手入れが行き届いていた試衛館
試衛館は外見は見すぼらしいが、中に入ってみると男所帯なのにどこからどこまで小ぎれいで手が行き届いていた、と福地桜痴が語っています。
当時の道場では、畳が赤く日に焼けたままだったり、ふすまが破れているようなことが多くあったそうですが、そういう行き届かない部分が見受けられなかったそう。
近藤勇の机の上に「日本外史」
当時の知識階級には「日本外史」を読むのが流行していました。
試衛館の近藤勇の机の上にも、写本しかけたものが半開きになっていた、と福地桜痴が語っています。
近藤周助と土方歳三のエピソード
3代目の近藤周助は、穏やかな隠居になっていたようです。
しかし、門下生が正式に門弟になる儀式「神文日(しんぶんじつ)」についてだけは、厳格に古式にのっとり、1月も前からあれこれ気にして準備していました。
この古式っぷりを土方歳三が、
「今日は江戸の真ん中でスナイドル銃の調練が行われる時代でございますからなあ」
と笑ってからかっていた、という逸話が残っています。
近藤周助と近藤勇や土方歳三、ほか新選組メンバーのエピソード
近藤勇の養父・天然理心流3代目の近藤周助は、家督を近藤勇に譲って隠居生活をしており、講談を聞きに行くのが好きでした。
講談を聞いて試衛館に帰ると、近藤勇、土方歳三、沖田総司、永倉新八や、「三日にあげず遊びに来ている伊庭八郎」などを集めて、盛りそばを1人3枚ずつ振る舞いました。
みんながそばを食べる中、近藤周助が1人、その日の講談の内容を話していました。
みんな、そばを食べているうちは大人しく聞いているのですが、そばを食べ終えた伊庭八郎が真っ先にどこかに行ってしまい、続いて1人、2人と席を立ってしまいます。
結局、最後まで聞いている近藤勇と周助の二人きりになり、顔を見合わせて笑う、というエピソードが福地桜痴に紹介されています。
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試衛館の歴史
試衛館道場は、近藤勇の養父で天然理心流3代目、近藤周助が天保10年(1839年)に開きました。
多摩に門下生が多く、近藤勇や土方歳三、沖田総司、山南敬助などがよく出稽古に行っていました。
文久元年(1861年)に近藤勇が4代目として天然理心流襲名の野試合をします。
その2年後の文久3年(1863年)、近藤勇が浪士組に入って上洛。
主だった幹部がみんな京に行ってしまったので、佐藤彦五郎などが留守を預かって、慶応3年(1867年)までは続いていました。
試衛館道場跡周辺の新選組ゆかりの観光スポット
牛込柳町駅
試衛館跡の標柱と近藤勇デザインの駅スタンプがあります。
四谷大木戸跡(内藤新宿関門跡)
甲陽鎮撫隊として甲州(山梨)に行く時に通った関所です。
江戸から多摩への出稽古に行く時や、隊士募集に帰った時など、何度も通った場所です。
土方歳三が隊士募集に帰った際の逸話なども残る場所です。