東京都新宿区の新撰組観光地・ゆかりの地

沖田総司逝去の地・植木屋平五郎宅跡(案内板)|新宿区の新選組ゆかりの地・観光スポット

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沖田総司逝去の地

沖田総司逝去の地

沖田総司が療養し亡くなった植木屋平五郎の離れは、新宿区の大京町交番の近くにありました。
実際の場所から少し離れたところに、「沖田総司逝去の地」の案内板が立っています。
ここでは、沖田総司逝去の地について紹介します。

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沖田総司逝去の地のアクセス・基本情報

沖田総司逝去の地のアクセス・基本情報

案内板住所

東京都新宿区内藤町1

アクセス

JR千駄ヶ谷駅から徒歩7分

植木屋母屋付近住所

東京都新宿区大京町29−2

アクセス

JR千駄ヶ谷駅から徒歩6分

駐車場

なし
周辺コインパーキング
タイムズ大京町第5

沖田総司逝去の地の地図

沖田総司逝去の地・植木屋平五郎宅跡の現在

少し離れた場所に「沖田総司逝去の地」案内板

沖田総司逝去の地案内板

沖田総司逝去の地案内板

植木屋平五郎の家があった場所から少し離れた、大京町交番の近くに、「沖田総司逝去の地」案内板があります。
以前は何も表示がありませんでしたが、有志の運動で平成26年に作られたようです。
ここも玉川上水の跡です。

実際の植木屋平五郎宅は、向かい側に渡ってもう少し道を新宿御苑方面に行ったところにあります。

植木屋平五郎の母屋があった富士見ビル近辺

植木屋平五郎宅があった富士見ビル近辺

植木屋平五郎宅の母屋があった富士見ビル近辺

植木屋平五郎の母屋があったのが、茶色い富士見ビルのあたりと言われています。
沖田総司が亡くなったのはその近辺の離れ
古地図などから、今幹線道路になっている路上ではないかという話もありますが、推定での話となっています。

植木屋平五郎家の近くにあった池尻橋欄干が残る

富士見ビルの隣に残る池尻橋の欄干

富士見ビルの隣に残る池尻橋の欄干

植木屋平五郎の家は、玉川上水にかかる池尻橋のほとりでした。
池尻橋の石の欄干が、富士見ビルの隣に残っています。

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植木屋平五郎宅離れはどんな場所だったか

子母澤寛「新選組始末記」では近藤勇五郎(近藤勇の甥で娘婿)の談話として、

  • 庭に梅の木がたくさんあった
  • 広々とした畑と田んぼがあった
  • 藁ぶき屋根
  • 八畳か十畳くらいの座敷、南と東に粗末な縁側
  • 一日いっぱい障子に日が当たり、時々鳥影がさした

などと書かれています。

現在は幹線道路が通って車の通行音などが騒がしいですが、当時は閑静な場所だったようです。

信州高遠藩内藤家の屋敷だった新宿御苑

信州高遠藩内藤家の屋敷だった新宿御苑

平五郎宅に近い現在の新宿御苑が、信州高遠藩内藤家の屋敷で、他は田畑、雑木林などが広がっていました。
沖田総司が療養した離れの近くに、玉川上水にかかる水車がありました。

隣の玉川上水は、現在は水がありませんが、大正時代までは澄んだ川で、落鮎やはや、鯉などが採れました。
また、蛍の名所で、太平洋戦争の頃まで、夏場は蛍がたくさん飛んだそうです。

沖田総司が亡くなった旧暦5月30日は、新暦に直すと1868年7月19日。
澄んだ川辺に住むゲンジボタルが光るのは、関東では新暦で6月から7月です。
沖田総司も亡くなる前、離れで療養しながら、夜には蛍が飛ぶのを見ていたのでしょうね。

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沖田総司の最後の日々

植木屋平五郎宅に移る沖田総司

沖田総司が療養した今戸神社

沖田総司が療養した今戸神社

沖田総司は鳥羽伏見敗戦後に江戸に戻った後、西洋医学所から今戸神社にあった松本良順の離れに移って療養していました。
その後、二月末に千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅に移ったと言われています。

新選組も沖田総司の療養にお金を出した記録あり

新選組の金銭出入帳に、2/26に大工払い沖田渡しとなっていて、植木屋の離れの改修費と考えられています。
2/28と2/29にも、甲陽鎮撫隊の出陣前に「沖田渡す」と沖田総司に金が支払われた記録があり、療養する沖田総司に隊費を残していったことがわかります。

甲陽鎮撫隊についていった説と行かなかった説

沖田総司が四股を踏んだ日野宿本陣の式台

沖田総司が四股を踏んだと言われる日野宿本陣の式台

佐藤彦五郎の孫(土方歳三の姉の孫)が残した「聞き書き新選組」では、沖田総司は3/1の甲陽鎮撫隊の出陣についていき、日野宿本陣で「まだまだこの通り元気です」と四股を踏む真似をしたことになっています。
その後、やはり体力的に無理があり、府中の関田家に預けられ、千駄ヶ谷に移って療養したことになっています。

 

ところが、近藤勇五郎(近藤勇の甥・娘婿)の談話では、2月末に千駄ヶ谷の植木屋平五郎の離れに来たことになっています。
甲陽鎮撫隊の出陣は3/1なので、こちらの説だと沖田総司は甲陽鎮撫隊にはついて行かなかったことになります。

姉・みつと沖田総司の別れ

沖田総司の姉・みつの夫、沖田林太郎は、浪士組で上京しましたが、京に残らず江戸に戻りました。
そして、浪士組の帰参者で作られた新徴組の組頭になり、庄内藩預かりとなって、江戸市中の見回りなどをしていました。
しかし慶応4年3月、新徴組は市中警備の任を解かれ、庄内藩に移住しなければならなくなりました。
新政府軍が迫る中、本国(庄内藩)の守備を固める意味もあったようです。
江戸が戦火に包まれると予想されていたため、隊士は妻子を連れての移住でした。

姉・みつと沖田総司がどのように別れたかは記録が残っていません。
慶応4年3月のみつの庄内への引っ越しが、姉弟の今生の別れになります。

これ以後、沖田総司の世話をしたのは植木屋の飯炊き婆さんだった、と伝わっています。

近藤勇の妻子の元に遊びに行く沖田総司

近藤勇の妻・ツネと娘のたまは、近藤勇が甲陽鎮撫隊に出陣した後、中野の成願寺に身を寄せていました。
姉も仲間も江戸を離れてしまった沖田総司は、駕籠で中野の成願寺までたびたび行き、何日も滞在していたということです。

ツネの
「沖田さんが来て、血を吐きまして」
という言葉が伝わっています。

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近藤勇の死を知らなかった沖田総司

近藤勇墓所

板橋駅前の近藤勇墓所

近藤勇は慶応4年4月25日、板橋で斬首されます。
一説では、沖田総司は病状の悪化を心配した植木屋平五郎たちに、近藤勇の死を知らされず、
「近藤先生から便りは来ませんか」
と、最後まで近藤勇を心配していたとも言われています。

結核では、興奮で発作を起こして血を吐いてしまう場合もあり、体が弱ってからはそれが命取りにもなるので、幼い頃から家族のように付き合ってきた近藤勇の死を知らせないという気遣いは、あり得る話でした。

沖田総司も聞いた上野戦争の砲声

彰義隊の墓と夜桜

上野公園の彰義隊の墓と夜桜

慶応4年5月15日、沖田総司の死の半月前、現在の上野公園で、彰義隊と新政府軍の衝突が起きます。
この時の砲声は江戸市中に響き、夜半になってもお堂などが燃える火が、二十里先まで見えたと伝わります。
会津に行きかけたものの江戸に引き返していた原田左之助が、最終的に彰義隊に入り、この上野戦争で重傷を負って2日後に亡くなっています。

沖田総司は原田左之助の死は知らなかったでしょうし、そもそも近藤勇と永倉新八・原田左之助が決別して別行動していたことも、知っていたかどうかはわかりません。
が、千駄ヶ谷にも砲声が聞こえ、夜には上野の方角が明るいのが見えたと思われます。

沖田総司の辞世の句

沖田総司の辞世の句と言われているのは次のものです。

動かねば闇にへだつや花と水

一説では、土方歳三が見舞いに来て、
「さしむかう 心は清き 水鏡」
と、沖田総司を水鏡にたとえて句を詠み、それへの返歌として詠んだものと言われます。
そのため、
「戦わなければ、自分と土方さん(または仲間)は遠く隔たってしまう」
という意味の、戦えずに仲間と離れてしまう悲しみを詠んだ句とされています。

ただ、これが沖田総司の辞世の句だという根拠が乏しく、後世の創作という説もあります。

沖田総司と黒猫と最期の言葉

沖田総司の世話をしていた飯炊きの老女が、のちに庄内から帰った沖田林太郎・みつ夫婦に話した逸話として、黒猫の話があります。

亡くなる2、3日前、沖田総司は庭に来る黒猫を斬ろうとしましたが、既に結核で衰弱していたため斬れませんでした。
翌日また斬ろうとしましたが、斬れませんでした。
その後意識不明になって倒れ、夢うつつに
「あの猫はまた来てるだろうな」
と言ったのが最期の言葉になりました。

他にこの話を裏付ける史料があるわけではないので、どの程度史実に基づいた話かはわかりません。
ただ、江戸時代には「黒猫を飼うと結核が治る」という迷信があったので、結核患者の沖田総司の近くに黒猫がいた可能性はあるようです。

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沖田総司の命日と戒名

沖田総司の命日は、旧暦で慶応4年5月30日。
新暦に直すと、1868年7月19日になります。
生まれた年に2つの説があるため、亡くなった時の年齢にも2通りの説がありますが、25歳か27歳で亡くなりました。

戒名は
「賢光院仁誉明道居士」
です。

沖田総司の墓

沖田総司の墓がある専称寺

沖田総司の墓がある専称寺

沖田総司の墓は港区の専称寺にあります。
過激なファンが墓石を削るなどの騒ぎがあったため、非公開です。
年に1回、総司忌の時のみ墓参りができます。

沖田総司の墓は、後年風化を防ぐために設けられた小さな屋根の下にあります。
正面に「賢光院仁誉明道居士」という戒名が刻まれています。

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沖田総司の亡くなった場所には2説ある

今戸神社が沖田総司最期の地説

今戸神社の沖田総司終焉の地碑

今戸神社の沖田総司終焉の地碑

台東区の今戸神社には、「沖田総司終焉之地」という碑があります。
これは永倉新八が書いた「同志連名記」にある、

「江戸浅草今戸八幡 松本良順先生宿ニテ病死」
(「同志連名記」永倉新八)

という記述を元にしたものです。
「今戸八幡」というのは今戸神社の古い名前です。

今戸神社の境内に、沖田総司の主治医・松本良順が間借りしていました。
沖田総司は鳥羽伏見の敗戦後、西洋医学所に行った後、今戸神社の松本良順宅に移されたことがわかっています。

以前はこの説が広まっていました。
ただし、永倉新八は沖田総司が亡くなった当時江戸にはいなかったので、推測または又聞きで書いたものでした。

植木屋平五郎宅の離れが沖田総司最期の地説

玉川上水跡に咲いていた花

玉川上水跡に咲いていた花

植木屋平五郎宅の離れが最期の地という説は、最初、子母澤寛(しもざわ かん)が近藤勇五郎(近藤勇の甥)から聞いた談話として

「郊外千駄ヶ谷のある植木屋の離れ座敷を借りて、ここへ駕籠にゆられて引き移った」
(「新選組異聞」子母澤寛)

という話が紹介されたものでした。
しかし、子母澤寛は小説家であって、著書では談話を引用しつつも脚色や、史実と違う部分が見られたことから、当初、この話は疑問視されていました。

しかし平成6年、三鷹の吉野泰三が残した「吉野家文書」が見つかりました。
天然理心流門人で、近藤勇五郎と親交が深かった吉野泰三が、近藤勇五郎の談話として明治22年の日付

沖田総司は近藤勇の門人。奥州白川阿部侯の臣。明治元年辰年丗日、東京千駄ヶ谷に於て病死。」
(「吉野家文書」吉野泰三)

と書き残していました。
このことで一気に、沖田総司最期の地は千駄ヶ谷、という説が有力視されるようになりました。

近藤勇五郎は近藤勇の妻子とともに生活していて、沖田総司が中野の成願寺に近藤勇の妻子に会いに行った時にもいたと思われます。
当時実際に江戸にいて、療養中の沖田総司に会っている人物が残した言葉なので、推測か又聞きで書かれた永倉新八の言葉よりも信ぴょう性がある、と判断されています。

このため、現在では
「沖田総司の最期の地は千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅の離れ」
と見られています。
今戸は、千駄ヶ谷に移る前に療養していた場所で、永倉新八はそこまでしか知らなかったのだろうとも思われます。

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植木屋平五郎って誰?

植木屋平五郎は柴田平五郎という名で、大名家の庭にも出入りして腕を振るう、大名家御用達の植木職人でした。
何故沖田総司を離れにかくまうことになったのかは、明らかになっていません。

沖田総司逝去の地周辺の新選組ゆかりの地・観光スポット

四谷大木戸跡(内藤新宿関所跡)

沖田総司や近藤勇、土方歳三、山南敬助などが、多摩方面に出稽古に行く時によく通った関所。
鳥羽伏見の敗戦後、甲陽鎮撫隊が山梨方面に出陣する時にも通りました。
近くに住んでいた土方歳三の親類が石田散薬の取引先でもあったので、土方歳三が若い頃からよく来ていた場所です。
隊士募集に江戸に帰った土方歳三と関所役人の逸話もあります。

幕末居酒屋「龍馬の空」別邸

幕末居酒屋。「龍馬の空」本邸は龍馬や土佐推しですが、この別邸は新選組を推していて、隊士の像やだんだらののれん、辞世の句などが飾られています。
オフ会などに。
➡幕末個室居酒屋「龍馬の空 別邸」(ぐるなび)

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