飛地山は加村山ともいって、流山市の近藤勇本陣跡近くにあった高台です。
新政府軍が近藤勇本陣跡近くに来た時、新選組の別動隊が、ここから大砲を撃ちました。
現在は流山市役所になっている付近で、流鉄線流山駅のホームの対岸の高台も飛地山の南側にあたりますが、特に案内板などはありません。
ここでは、流山市の飛地山を紹介します。
流山市飛地山の場所・基本情報
流山市飛地山の住所・基本情報
住所 | 流山市平和台1丁目1−1 |
駐車場 | 流山市役所駐車場 |
アクセス | 流鉄流山線流山駅から徒歩3分 |
流山市飛地山の地図
流山市飛地山と新選組の関わり
新選組、飛地山へ
4月2日、流山に来た新選組は、本隊が現在の近藤勇本陣跡(永岡家)に入り、残りの隊士は光明院・流山寺などに分宿しました。
流山に来る前の五兵衛新田(足立区綾瀬)に滞在していた時、新選組には近藤隼雄率いる歩兵隊が合流していました。
この歩兵隊は、砲台を置くのに適した高台だった飛地山に大砲を置きます。
新政府軍に砲撃
新政府軍の探索隊として来た有馬藤太は、先に流山に上陸し、本陣となっていた永岡家を訪ねます。
内藤隼人と名乗った土方歳三が応対し、「脱走兵を取り締まるための隊」だと説明します。
その後、北方にある羽口の渡しから新政府軍の本隊が渡ってきて、3手に別れて近藤勇の本陣に迫ります。
この時、飛地山の歩兵隊から大砲が5,6発撃たれました。
新政府軍も一斉に飛地山の方に射撃しました。
新政府軍の別の隊が、近藤勇たちの本陣前で菊の御旗(天皇家のご紋)を振ったために、歩兵隊は反撃をやめます。
本陣はすっかり包囲され、飛地山の歩兵隊も、新政府軍に制圧されます。
この後、近藤勇は「脱走兵を取り締まるために駐屯していたので、新政府軍に反抗するつもりはない」という申し開きのため、幕臣・大久保大和を名乗って越谷宿に出頭します。
越谷宿から板橋宿に行かされ、そこで近藤勇だと判明して、4月25日に板橋で斬首されています。
Sponsored Links
現在の飛地山と過去の飛地山
流山市役所になった現在の飛地山・裏手は開発でマンションに
現在、飛地山だったあたりの北側には市役所が建っています。
飛地山の南側は以前は森が残っていましたが、開発され、現在は福祉センターやマンションが建ち並んでいます。
特に、新選組に関する案内板などはありません。
流鉄線流山駅のホームの対岸は高台になっています。
その高台も、飛地山だった場所です。
市役所の南側あたりが見えています。
飛地山の歴史
飛地山は、田中藩の飛び地領を管理する役所があったために飛地山と呼ばれていました。
加村にあったため加村山とも呼ばれています。
田中藩の陣屋は、ここから北の、現在流山市立博物館や図書館があるあたりにありました。
Sponsored Links
飛地山に広がる心霊スポットのデマ
「飛地山」に関しては、明治に刑場だったという噂がネット上で流れているようで、「処刑で血が飛んだから飛血山」という語源や、人骨が出たという話が広がっているようです。
しかし、飛地山へのマンション建設前に行われる埋蔵文化財などの調査では、住居跡しか発掘されておらず、人骨は出ていないこと、処刑跡地ではないという結果が出ています。
語源についても、田中藩の飛び地領(田中藩の本拠地と離れた場所に持っている領地)を管理する役所があったため「飛地山」と呼ばれたのが由来で、幕末には既にそう呼ばれており、明治の刑場で血が飛んだからという由来は誤りです。
さらに、「飛地山は近藤勇が処刑された刑場だ」というデマがあって驚いたのですが、近藤勇は板橋で斬首されたのが歴史的事実で、流山では亡くなっていません。
流山での近藤勇は、あくまで「幕臣・大久保大和」として事情説明のため出頭しており、新政府軍から敵視される「新選組の近藤勇」とは思われていないので、ある程度丁重に遇されています。
飛地山周辺の新選組ゆかりの観光スポット
流山市立博物館
田中藩の陣屋(下屋敷)があった場所に建つ博物館。
近藤勇本陣の永岡家に当時あった階段や、流山での新選組についての展示があります。
近藤勇本陣跡
近藤勇が本陣を置いた永岡家の跡。
近藤勇と土方歳三の今生の別れの場所です。
土台石と碑、案内板があり、流山での新選組について掲示されています。
流山浅間神社
この神社の裏手に新政府軍が本陣を置き、菊の紋の御旗を立てています。
近藤勇本陣跡すぐ近く。