現在イタリア大使館などがある一帯は、原田左之助が15歳頃から数年住み込んで働いた伊予松山藩の中屋敷があった場所です。
原田左之助が美男だったこと、上役の子供とよく遊んで懐かれたこと、反抗的で仕置きを受けていたことなどの逸話があります。
現在は案内板も何もありません。
この記事では、伊予松山藩中屋敷跡と、そこにいた10代の頃の原田左之助の逸話について紹介します。
原田左之助勤務地(伊予松山藩中屋敷跡)のアクセス・基本情報
原田左之助勤務地(伊予松山藩中屋敷跡)のアクセス・基本情報
住所 | 東京都港区三田2-5-4、5、6など |
アクセス | 都営大江戸線赤羽橋駅から徒歩9分 |
駐車場 | なし 周辺コインパーキング ユアー・パーキング三田2丁目駐車場 |
原田左之助勤務地(伊予松山藩中屋敷跡)の地図
原田左之助勤務地(伊予松山藩中屋敷跡)はこんな場所
原田左之助勤務地(伊予松山藩中屋敷跡)の現在の様子
原田左之助が目付の小使(従卒)を勤めた伊予松山藩中屋敷跡は、現在はイタリア大使館やその周辺のマンション、飲食店などが建ち並んでいます。
三田高校の向かいあたり、松山藩中屋敷の正門があった側の石垣に工事予定の掲示があり、三田小学校の建物が建つことが書かれていました。
ここに載せた状態からまた変わっていくのでしょうね。
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原田左之助勤務地(伊予松山藩中屋敷跡)の江戸時代の様子
江戸切絵図から、「赤羽小学校前」の信号や三田高校に面した方向が正門だったことがわかっています。(江戸切絵図では頭文字が書いてある方向が正門です)
東隣は町屋と、春日社(現在の三田春日神社)でした。
その細長い町屋地帯を挟んでさらに東隣の区画の一部に、薩摩藩島津家の上屋敷がありました。
慶応3年の新徴組などによる「薩摩藩邸焼き討ち事件」はここで起きて、これが戊辰戦争の発端になりました。
現在は都営線三田駅北側のNECの敷地に「薩摩屋敷跡」の碑があります。
周辺には各藩邸が立ち並んでいました。
綱坂(つなざか)をはさんだ西隣には、松平肥後守(会津藩松平家)の下屋敷もありました。
少し離れた南東方向、現在のJR田町駅西口に、薩摩藩蔵屋敷がありました。
そこで慶応4年、勝海舟と西郷隆盛が江戸城無血開城の最終交渉をしました。
今は碑が立っています。
今のJR線路を越えた田町駅芝浦口は、江戸時代には埋め立てておらず海でした。
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原田左之助と伊予松山藩中屋敷
原田左之助が目付の小使(従卒)を勤めた伊予松山藩中屋敷
原田左之助は安政元(1854)年、数えで15歳になる頃、この江戸の伊予松山藩中屋敷にいました。
中間(ちゅうげん)という、脇差を差すことを許されるものの武士身分ではない、武家奉公人の身分でした。
仕事としては、目付方の小使(従卒)を勤め、目付方の雑務を手伝っていました。
目付の子供と遊ぶ原田左之助
小使だった原田左之助は、他の小使と当番制で、仕えている目付の家に行って手伝いをすることもありました。
目付の子供で当時9~10歳だった内藤助之進(素行)が、原田左之助について次のように語っています。
なかなか怜悧な男で、かつ容貌万端、子供心にも美男であったと認めております。
(「史談会速記録297輯」)
私どもに接しましても、なかなかうまく機嫌を取りまして、面白く遊ばしてくれますので、私は最もこれに親しみまして、他の者よりは、この男が親の当番の日に来ることをかねてより楽しんでおって、佐(左)之助々々々といって、特別面白う遊ばしてもらいました。
(「史談会速記録297輯」)
原田左之助は美男で、子供に懐かれる少年だったようです。
仕置きを受ける原田左之助
10代の原田左之助は、目上の者に逆らうことが多かったようです。
この伊予松山藩邸である時、酒に酔って注意されたのに反抗したため、仕置きとして褌姿で後ろ手に縛られ、猿轡をはめられて土間で水を浴びせられる体罰を受けたという逸話があります。
伊予松山藩中屋敷を出た後の原田左之助
原田左之助と遊んだ目付の子供・内藤助之進は、安政4(1857)年、国元の松山で、親類の中島家に奉公している数えで18歳頃の原田左之助を見ています。
それまでの3~4年ほど、江戸の伊予松山藩邸に勤めていたようです。
その翌年、安政5(1858)年、19歳頃、松山で武士と喧嘩して「腹を切る作法も知らぬ下司野郎」と罵られ、怒って刀を抜いて自分の腹を切ります。
傷が浅くて助かったようです。
腹に一文字の傷跡が残っていたのを、後に妻になるまさが見ています。
原田左之助は新選組に入ってからも酒に酔うと、「俺の腹ァ金物の味を知ってるんだぜ」とこの傷を自慢していました。
この切腹騒動の後、原田左之助は松山から大阪に出て、谷三十郎・万太郎の道場で種田流槍術を学びます。
それから江戸に出て、文久2(1862)年12月、数え23歳の頃、浪士組が上洛する3か月ほど前から、江戸の試衛館に食客として出入りするようになりました。
そして文久3(1863)年2月に浪士組の一員として京に上ります。
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原田左之助勤務地(伊予松山藩中屋敷)跡地に建つ飲食店
伊予松山藩中屋敷跡の敷地は広く、イタリア大使館やマンションなどが建つほか、現在では飲食店も数軒建っています。
特に伊予松山藩邸を思わせるものはありませんが、史跡巡りの合間に、ゆかりの地に建つ飲食店で休むのもいいですね。
鮨の庄さいとう
松山藩邸の敷地だった場所にある鮨屋さん。
定休日 | 土日 |
営業時間 | 17:00~21:30 |
住所 | 東京都港区三田2丁目7-28 三田ホウレーン1F |
アクセス | 都営大江戸線赤羽橋駅から徒歩10分 |
関連サイト | 鮨の庄さいとう(ぐるなび) 鮨の庄さいとう(食べログ) 鮨の庄さいとう(ホットペッパー) |
蕎麦切 砥喜和
松山藩邸の敷地だった場所、イタリア大使館向かいあたりにある蕎麦と季節料理などの店。
定休日 | 無休 |
営業時間 | [月〜金]11:30~L.O.14:00/17:00~L.O.22:00 [土日祝]11:30~L.O.21:00 |
住所 | 東京都港区三田 2-6-13 コート三田 1F |
アクセス | 都営大江戸線赤羽橋駅から徒歩11分 |
関連サイト | ネット予約可能 蕎麦切 砥喜和(ぐるなび) 蕎麦切 砥喜和(食べログ) 蕎麦切 砥喜和(ホットペッパー) |
じゃがいもの花
松山藩邸の敷地だった場所の西の端にある、独特な雰囲気の大衆パスタのお店。
定休日 | 日祝 |
営業時間 | [月~金] 11:30~14:00 17:30~21:00 (売切れ終了) [土] 11:30~13:00 |
住所 | 東京都港区三田2-9-2 |
アクセス | 都営大江戸線赤羽橋駅から徒歩9分 |
関連サイト | じゃがいもの花(ぐるなび) じゃがいもの花(食べログ) じゃがいもの花(ホットペッパー) |
シュヴァリエ
松山藩邸の敷地だった場所の西の端付近にある、高級フレンチのビストロ。
定休日 | 日祝 |
営業時間 | ランチ 11:30~14:00 ディナー 17:30~22:00 |
住所 | 東京都港区三田2-7-20 |
アクセス | 都営大江戸線赤羽橋駅から徒歩9分 |
関連サイト | ネット予約可能 シュヴァリエ(食べログ) |
原田左之助勤務地(伊予松山藩中屋敷跡)付近の新選組ゆかりの地・観光スポット
斎藤一勤務地(麻布警察署跡)|何もなし
斎藤一が明治21年から24年まで勤務していた麻布警察署の跡地。現在はエネオスなどが建っていて案内板も何もありません。
最勝院(島田魁・新選組隊士謹慎地)|何もなし
島田魁たち箱館で降伏した新選組隊士が、江戸に護送されて謹慎した増上寺の子院。
現在は50メートルほど東に移転して、跡地には案内板も何もありません。
真浄寺(池田七三郎=稗田利八の墓)
昭和まで長生きした最後の新選組隊士・池田七三郎(稗田利八)の墓があります。
御首題あり。