近藤勇最期の地は、近藤勇墓所から板橋駅の方を向いて右斜め向かい方向にあった「馬捨て場(馬の埋葬場)」です。
当時は寿徳寺の土地で、元からの刑場ではなく、新政府軍がたまたま処刑に使った場所でした。
現在は板橋駅前の商店が立ち並び、案内板などは何もありません。
ここでは、近藤勇最期の地と、近藤勇の最期について紹介します。
近藤勇最期の地のアクセス・基本情報
近藤勇最期の地のアクセス・基本情報
住所 | 東京都北区滝野川7丁目2付近 |
アクセス | JR板橋駅から徒歩1分 都営三田線新板橋駅から徒歩6分 |
駐車場 | 三井のリパーク滝野川6丁目第5(30分400円)など |
近藤勇最期の地の地図
※最期の地の場所や地形については、あさくらゆう著「新選組を探る」に載っていた地図を参考にしています。
※ほかの説もあります。
近藤勇最期の地はどんな場所か
現在不動産屋さんなどが並ぶ交差点付近に平尾一里塚があり、その近くから2方向に別れて千川上水が流れていました。
2つの上水に囲まれた角には、深い大やぶがあり、その向こうが馬捨て場でした。
1方には土手があり、もし近藤勇を奪還に来る者がいても、新政府軍としては千川上水を天然の堀として戦いやすい、という側面もありました。
当時は寿徳寺の土地で、馬捨て場(馬の埋葬場)になっていました。
元から刑場だったわけではなく、新政府軍がたまたま処刑に使った場所でした。
板橋宿のうち平尾宿の江戸に近い側の村はずれにあり、周辺は畑地と森でした。
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近藤勇最期の日
前日から滞在した石山家からの出立
近藤勇は板橋では平尾脇本陣の豊田家に幽閉されていましたが、処刑前日の4月24日にこの近くの石山家に移されていました。
既に死を覚悟していたのか、前夜は風呂に入ってひげを剃り、読む物を求めて石山家の絵草紙を借り、穏やかに過ごしたと伝わります。
近藤勇は当日、白い着物に着替え、石山家の人がその着替えを手伝ったと伝わっています。
一方で、処刑を見ていた近藤勇五郎は、「いつも近藤勇が着ていた、亀綾織(斜めに糸を交差させて織りあげた布)の袷(あわせ・裏地のついた着物)を着て処刑された」と伝えており、どちらの服装だったかは不明です。
辞世の句も、石山家で詠んだとも言われています。
近藤勇は当日、駕籠に乗って処刑場へ出立する時も、堂々としていたと伝わっています。
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横倉喜三次と近藤勇の面会
処刑当日に、岡田家に処刑役が命じられ、岡田家家中の横倉喜三次(よこくらきそうじ)が処刑をすることになります。
横倉喜三次は、平尾脇本陣で幽閉中の近藤勇の見張り役で、剣の達人同士で親しく話をする間柄でした。
石山家で、横倉喜三次は近藤勇に面会し、自分が太刀取りを命じられたことを告げます。
横倉喜三次が達人であることを知っていた近藤勇は喜んで、
「君の太刀取りなら何も申し置くことはない。よろしく頼む」
という話をしました。
また、近藤勇はこの時、処刑されるはずだった新選組隊士、野村利三郎と相馬主計の助命への口添えを、横倉喜三次に頼みました。
横倉喜三次の口添えで、野村利三郎と相馬主計はのちに釈放され、仙台へと転戦しています。
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4月25日の近藤勇最期の地
先に盗賊の処刑があり、その後準備があったので、近藤勇の処刑は夕方近くでした。
見物人があふれ返り、設けられた囲いの外につめかけた他、土手の上から見たり、近くの小屋の屋根に登るなどの大騒ぎだったそう。
この時、見物人の中に近藤勇の甥でのちに娘婿となって天然理心流を継ぐ、宮川勇五郎(のちの近藤勇五郎)がいました。
近藤勇が板橋に捕まっていると聞いて、勇五郎は何度か板橋に来ており、4月25日に来たところ処刑当日でした。
勇五郎はこの日、刑の執行から首を洗うところまで見届け、実家の上石原に戻ります。
その後は天然理心流の門人たちとあれこれ手配し、3日後の夜に近藤勇の体を奪還するために再び板橋に来ています。
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近藤勇の処刑
慶応4年4月25日、午後5時40分頃、近藤勇は処刑されます。
徳川慶喜の助命や無血開城のために、新政府軍を刺激したくなかった幕府側が、近藤勇について新政府軍に「当方とは関係ない」と回答していました。
そのため、新選組として取り立てられたこと自体がなかったことになっています。
武士としての切腹は許されず、斬首でした。
「勝手に幕臣を名乗って官軍に手向かいした」という罪状の立札が立てられていました。
役人や警護役が、刑場の四方を囲んでいました。
その囲みの外にも土手の上にも、たくさんの見物人がいました。
(上の写真は見物人が詰めかけた外縁部あたり)
土手を背にした刑場で、中央に穴が掘られて、穴の前には新しい筵(むしろ)が敷かれていました。
駕籠から出た近藤勇は、少しの間筵の上に立ったまま江戸の空を眺めていたと、見ていた近藤勇五郎が伝えています。
それから穴を前にして近藤勇は座ります。
そこで近藤勇は髭と月代(さかやき)を剃り、「ながながご厄介に相成った」と告げます。
そして、後ろから斬るのに邪魔になる髻(もとどり・上に結ったまげの部分)を、自分でつかんで前の方に持ち上げました。
処刑役の横倉喜三次が、処刑を受ける者の成仏を願って唱えられる「首実検文」を唱えました。
諸悪本末無明當機実検直義何處有南北
(諸悪は本末無明なり。この機にあたり、直に実検する。南北はいずれにありや)
唱え終わると、横倉喜三次の家宝の佩刀・二王清綱で、近藤勇の首が落とされます。
倒れかかった体が、前に掘られた穴に落ちずに橋のようになり、そのため首は血で汚れなかった、と横倉喜三次は伝えています。
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処刑後の近藤勇の首の行方
近藤勇の首は洗われて、本人が着ていた羽織で包まれ、来る時に乗ってきた駕籠で板橋宿本陣に運ばれました。
役人の首実検の後、白木綿で巻き上げられ、焼酎漬けにされ、箱に密封されます。
その首を、丸の内の鳥取藩邸で岩倉総督が確認し、また密封して京に運ばれました。
そして、京の三条河原で三日間晒されました。
このため、近藤勇の首塚は板橋にはありません。
横倉喜三次は近藤勇の首について、京でさらされた後、東本願寺に下げ渡され、大谷墓地に葬られたと書き残しています。
が、東本願寺には近藤勇の首のことは伝わっておらず、近藤勇の首がどうなったのか不明なままです。
代わりにいくつか、近藤勇の首塚という伝承のある場所があります。
近藤勇の首塚といわれる場所については、詳しくはこちらの記事で書いています。
処刑後の近藤勇の体の行方
近藤勇の体は、いったん刑場の穴に埋められましたが、奪還されることを恐れてか、その晩現在近藤勇墓所があるあたりに埋葬し直されています。
近藤勇が最期の一夜を過ごした、石山家の子孫には、
「近藤勇の埋葬場所を、数日の間、村の主だった家の人々が交代して、かがり火をたいて警護していた」
と伝わります。
村人としては、恨みのある者に遺体がひどい扱いを受けるのを防ぐための、近藤勇に対する善意でした。
一方で、近藤勇の甥・勇五郎は
「処刑3日後の夜、刑場の番人に多額の金を与えて、遺体を掘り起こし、ひそかに故郷の龍源寺に運んだ」
という談話を残しています。
こちらももちろん、故郷で家族や親族で弔おうという、近藤勇への善意です。
が、石山家では
「かがり火をたいて夜も見張っていたので、絶対に掘り起こせるわけがない」
と語っています。
このため、近藤勇の体の行方については、板橋説と龍源寺説があります。
板橋からも龍源寺からも、墓の改修時などの調査で、首のない遺骨が出ています。
龍源寺の遺骨では、子供の頃の足の骨折跡も確認されています。
このため、龍源寺の遺骨が近藤勇のもので、板橋の方の遺骨は同じ日に処刑された盗賊か、前月の刑死人では、という見方もありますが、証明はされていません。
板橋説と龍源寺説についてはこちらの記事でも書いています。
近藤勇最期の地周辺の新選組ゆかりの観光スポット
近藤勇墓所
近藤勇の板橋での埋葬場所。永倉新八が慰霊碑を作り、自分もその手前の墓で眠っています。
しゃとう
近藤勇墓所の隣。
「イサミあんみつ」があります。
JR板橋駅(近藤勇墓所の駅スタンプ)
西口階段の下(改札外)に、近藤勇墓所をデザインした駅スタンプがあります。
都営三田線新板橋駅(近藤勇銅像の駅スタンプ)
板橋1丁目方面の改札内に、近藤勇の銅像をデザインした駅スタンプがあります。