東京都調布・三鷹の新撰組観光地・ゆかりの地

上布田宿(近藤勇が診察を受けた宿場跡)案内板|調布・三鷹エリアの新撰組ゆかりの地観光スポット

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上布田宿と近藤勇

上布田宿と近藤勇

「上布田宿(かみふだのしゅく・かみふだじゅく)」は調布にあった宿場町、「布田五宿(ふだごしゅく)」の一つです。
近藤勇が病にかかって生家に帰った時、上布田宿に来ていた伊東玄朴という蘭方医に診察を受けて全快したという案内板があります。
案内板にはないですが、沖田総司が出稽古先の町田で麻疹になって門人に運ばれたのも「布田宿」です。
ここでは上布田宿案内板を中心に、布田宿と近藤勇・沖田総司の関わりを見ていきます。

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上布田宿案内板のアクセス・基本情報

上布田宿案内板のアクセス・基本情報

住所

調布市布田1-29-1

アクセス

京王線調布駅から徒歩2分

駐車場

案内板が立っているのがコインパーキング「トート調布パーキング」の前。20分200円

上布田宿案内板の地図

上布田宿と近藤勇の逸話

上布田宿と近藤勇の関わり(案内板あり)

上布田宿と近藤勇

上布田宿と近藤勇

上布田宿は、近藤勇の生家・宮川家に近い上石原宿から2つ前の宿場です。
近藤勇が近藤家に養子に入った後、病気になって生家に帰っていたことがありました。
蘭方医(西洋医学を学んだ医者)の伊東玄朴(いとうげんぼく)が上布田宿に来ていたので、診断・投薬を受けたところ全快しました。
その案内板が調布駅から2分ほどのところに立っています。

「近藤勇と新撰組ゆかりの人(上布田宿)伊東玄朴」の案内板の場所

駐車場の自販機の脇に案内板

駐車場の自販機の脇に案内板

上布田宿は、今の京王線調布駅の近くにありました。
案内板は調布駅から徒歩2分の、「トート調布パーキング」という駐車場前の自販機の横にあります。

上布田宿案内板の向かい

上布田宿案内板の向かいはこんな感じ

「ほうきや」と「お茶の田中園」に挟まれた駐車場で、向かいは「三井のリハウス調布センター」「minimini調布店」です。

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伊東玄朴とその後の新選組のかかわり

現在の西洋医学所跡

現在の西洋医学所跡

伊東玄朴は、長崎でシーボルトから西洋医学を学んだ蘭方医です。
1858年に神田に種痘所を開き、これが後の西洋医学所になります。
シーボルトよりもさらに新しい西洋医学を学んだ松本良順と対立し、浪士組が上洛する直前の文久3年に失脚しています。

伊東玄朴が作った西洋医学所には、鳥羽伏見の敗戦後、負傷した近藤勇と労咳(結核)の沖田総司たち負傷兵が来て治療を受けました。
その後、甲陽鎮撫隊が甲州勝沼(山梨)で敗戦、近藤勇はまた医学所で手当を受けます。
そこに、永倉新八と原田左之助が訪れ、会津へ行こうと近藤勇を説得しますが、折り合わず、新選組を脱退しました。
そんな新選組にとって重要な場所・西洋医学所を作った人物が伊東玄朴です。

布田宿と沖田総司の逸話

沖田総司と麻疹

案内板では触れられていませんが、布田宿には沖田総司の逸話もあります。

浪士組が京に上洛する半年ほど前に、沖田総司は出稽古のために町田に泊りがけで行きます。
三日間門人に剣の稽古をつけた後、江戸で流行していた麻疹を発症します。
そのため、門人の一人が馬に乗せて布田宿まで送りました。
当時、麻疹では多くの死亡者が出ていました。
町田の小島家では、「沖田総司は将来必ず名人になる人なのに」と心配していたと伝わります。
小島家の当主が4代に渡ってつけていた「小島日記」に、そのエピソードが残されています。

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文久二年の麻疹の大流行

沖田総司も感染した文久二年の麻疹は、長崎に停泊した西洋の船からもたらされたと言われ、関西で流行したあと、江戸に流行が移りました。
江戸だけで24万人が亡くなる大流行でした。
現在でも麻疹は感染力が特に強い病気で、ワクチンで予防はできるものの、発症してしまえば対処療法しかありません。
当時は対処療法もなく、大量に発行された「はしか絵」という浮世絵では、はしかを治すまじないの方法や、金柑を食べるとよいなどの民間療法が記されています。
この麻疹とその前のコレラの大流行は、異人を追い出せという風潮に一役買っています。

沖田総司が布田宿のどこに運ばれたかは不明

布田宿の標柱

布田宿の標柱

布田五宿には、上石原、下石原、上布田、下布田、国領の5つの宿場がありました。
5つまとめて「布田宿」と呼ばれていました。
そのうち、中心地だったのがこの上布田宿です。
医師も住んでいました(近藤勇を診た伊東玄朴ではありません)。

沖田総司が運ばれた「布田宿」が上布田宿だったのか、下石原宿などほかの宿場だったのかは不明です。
ただ、町田の出稽古の後で江戸の試衛館に戻るには、布田宿から甲州街道を通ることになるので、よく通った場所でした。

沖田総司の労咳(結核)と麻疹

沖田総司は麻疹にかかった半年後に浪士組で京に上京し、五年後には鳥羽伏見の戦いで敗戦して江戸に戻ります。
その頃には労咳(結核)が重くなっていて、その年のうちに亡くなります。
死因になった結核については、抵抗力があれば感染しても結核菌は封じ込められ、発症せずに終わることもあります。
沖田総司は、麻疹になる前に結核菌に感染していて、その後麻疹にかかって抵抗力が落ちたので、結核菌が封じ込められることがなく、のちの労咳の発症につながったのではないか、という説もあります。
沖田総司の研究者であり、医師でもある森満喜子「沖田総司おもかげ抄」にその説が載っています。

この説が当たっているなら、麻疹を発症した町田や、その後運ばれた布田宿は、沖田総司の運命の分かれ道だったということになりますね…

上布田宿周辺の新撰組ゆかりの観光スポット

布多天神社(近藤勇の孫の名が載る碑と近藤勇の案内板)

近藤勇の孫・久太郎の名が載る、日露戦争戦没者の慰霊碑があります。
近藤勇との関係が、案内板で説明されています。

調布市郷土博物館

近藤勇生家の展示がある2階に、布田宿について説明する印刷物もあります。
近藤勇の座像も。

原田(谷戸)道場跡

近藤勇が最初に剣術を学んだと伝わる、原田忠司の道場跡です。

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