荒川区の円通寺には、新選組を含む旧幕府軍の戦死者を慰霊する「死節之墓」があり、近藤勇、土方歳三、野村利三郎の名が刻まれています。
彰義隊士の墓もあり、彰義隊で戦死した原田左之助の追悼もできます。
彰義隊の激戦地・寛永寺の黒門も移築されています。
他にも、旧幕府軍側の人々の墓や碑がたくさんあります。
ここでは円通寺と新選組や旧幕府軍の見どころを紹介します。
円通寺のアクセス・基本情報
円通寺のアクセス・基本情報
住所 | 東京都荒川区南千住1-59-11 |
アクセス | 都電荒川線三ノ輪橋駅から徒歩3分 JR南千住駅から徒歩8分 |
駐車場 | あり |
公式サイト | 円通寺 |
円通寺の地図
円通寺と新選組・旧幕府軍慰霊の「死節之墓」
「死節之墓」の由緒
彰義隊の上野戦争の舞台になった寛永寺の御用商人には、神田の三河屋幸三郎がいました。
その三河屋幸三郎が、向島の別荘に旧幕府軍慰霊のための「死節之墓」を建てて、鳥羽伏見・会津・箱館などの戦死者の名を彫ってひそかに供養していました。
円通寺が旧幕府軍戦死者の供養をする官許を得たので、この「死節之墓」が円通寺に移されました。
現在は東京都の指定文化財になっています。
近藤勇・土方歳三・野村利三郎の名がある「死節之墓」
本堂に向かって左側にあります。
二基あるうち左側が「死節之墓」、右側が彰義隊の墓です。
先に本堂を訪ねて、御朱印をいただく時に「死節之墓」や「彰義隊の墓」にお参りしていいか尋ねてから伺いました。
この墓所は入れなかった時期もあるようなのですが、この時は特に施錠などされておらず、お寺の方も「どうぞお参りしてください」という返答でした。
向かって右側面の最上段右から3番目に近藤勇、上から3段目の右から2番目に宮古湾海戦で戦死した新選組隊士・野村利三郎(「理三郎」の表記になっています)の名があります。
裏面の最下段一番右には「翌己巳之夏於奥州宮古及箱館戦没」として土方歳三の名があります。
新選組以外でも、裏面最下段には土方歳三の隣に葬られたという説がある遊撃隊の伊庭八郎、宮古湾海戦で戦死した艦長の甲賀源吾などの名があります。
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円通寺と彰義隊士の墓・史跡
原田左之助も入隊した彰義隊の隊士の墓
円通寺の当時の住職・佛磨和尚と、神田で人足宿「三幸」を営んでいた商人・三河屋幸三郎が、上野戦争で野ざらしになっていた彰義隊士の遺体を供養しました。
新政府軍に逆らうことになるため決死の覚悟での供養でしたが、これをきっかけに、円通寺が幕府軍の供養をする官許を得られました。
現在、上野公園にある彰義隊の墓の場所で火葬を行って、266体の遺骨をこの円通寺に葬ったのがこの「彰義隊の墓」です。
原田左之助の墓はどこ?
原田左之助は彰義隊に入って上野戦争で戦い、重傷を負って現在の江東区深川にあった味方の神保山城守邸に逃げ延び、そこで亡くなりました。
原田左之助の遺体や墓がどこにあるかは今もって不明です。
このため、墓参りをしたい場合は、
- 北区の近藤勇墓所の新選組隊士供養塔(側面に名あり)
- 上野公園の彰義隊士の墓(上野の遺体を火葬した場所)
- 円通寺の彰義隊の墓(上野で火葬した遺骨を収めた場所)
の3か所のどこかで墓参りすることになります。
彰義隊が戦った寛永寺の黒門が移築
幕府軍の供養をした縁で、彰義隊が激戦を繰り広げた寛永寺の黒門が円通寺に移築されています。
上野戦争での銃弾による穴が無数に空いていて、どれだけ激しい戦いだったのかを感じることができます。
今は荒川区の指定文化財になっています。
寛永寺の黒門は、現在の上野公園の南側、京成上野駅の近くから入って噴水や蜀山人の碑があるあたりにありました。
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彰義隊副頭取・天野八郎の碑と墓
彰義隊の副頭取・天野八郎の碑です。
彰義隊は渋沢成一郎が頭取でしたが、路線の違いから後に脱退するため、実質は天野八郎が代表でした。
上野戦争で破れ、市中に潜んでいたところを密告で囚われ、拷問を受けて獄死します。
小塚原回向院に埋葬されましたが、後に円通寺に改葬されています。
彰義隊八番隊長・木下福次郎と本営詰組頭・鷹羽玄道兄弟の碑
彰義隊八番隊長の木下福次郎と、その弟の本営詰組頭・鷹羽玄道(上原仙之助)の碑です。
上野戦争で敗戦後、榎本艦隊とともに箱館まで行き、木下福次郎は彰義隊差図役頭取として、弟の上原仙之助は彰義隊差図役として、元彰義隊士をまとめています。
兄弟とも箱館戦争を生き延び、明治には静岡藩預かりになった彰義隊士をまとめたり、鍼灸医になったりしています。
彰義隊第二白隊伍長、本営詰組頭・樵村丸毛君碑と合同慰霊碑
彰義隊で第二白隊伍長を勤めた丸毛利恒(まるもとしつね)の碑です。
樵村は雅号です。
上野戦争敗戦後は箱館に渡って彰義隊差図役頭取となり、その後五稜郭本営詰めになります。
降伏後は箱館戦争の記録「北洲新話」を書いたり、横浜税関や農商務省に勤め、横浜毎日新聞の記者になります。
その横に「合同舩」と書かれた、彰義隊士8人の合同慰霊碑があります。
彰義隊応接掛・土肥庄次郎の碑
榎本武揚の書だったようなのですが、残念ながら途中から折れてしまっています(写真左手前)。
土肥庄次郎は彰義隊の応接掛(諜報係)をし、敗戦後は咸臨丸で榎本艦隊と箱館に行こうとします。
しかし暴風雨で漂流して静岡まで流されてしまい、箱館行きを断念。
吉原の太鼓持ちとして後半生を生きましたが、遺言で戦友とともに円通寺に眠っています。
彰義隊士・後藤鉄次郎の碑
上野戦争で戦死した彰義隊士・後藤鉄次郎の碑です。
上野山王台(現在彰義隊の墓などがある付近で、砲台が置かれ新政府軍に向けて砲撃していました)で被弾して亡くなりました。
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円通寺にある幕府関係者の墓や碑
土方歳三を運んだ小柴長之助の墓
土方歳三ファンはお参りしていきたい、小柴長之助の墓です。
本堂に背を向けて、道路方向に向かって右奥の塀ぎわ、自然石の墓になります。
小柴長之助は、箱館戦争では土方歳三の部下として箱館市中取締役をしていました。
土方歳三が一本木関門で戦死した時、五稜郭から遺体を引き取りに行っています。
晩年はこの円通寺で墓守りをして、「死節之墓」や幕府軍の人々の墓を守って暮らしていました。
大正5年、88歳の時に、まだ鉄道も通っていなかった日野の土方歳三生家を徒歩で訪れ、仏前で泣き崩れ、石田寺に墓参りをしていきました。
小柴長之助はその2か月後に亡くなっています。
榎本武揚の碑
箱館政権の総裁・榎本武揚の追悼碑です。
海軍副総裁で幕府海軍のトップでしたが、艦隊を率いて江戸から脱走し、船体修理に寄港していた仙台で土方歳三や大鳥圭介を乗せ、蝦夷へ向かいます。
箱館では日本初の選挙で総裁となり、箱館戦争を戦いますが敗戦。
新政府軍の黒田清隆が助命に手を尽くしたことから、明治には黒田清隆の下で北海道開拓使に勤め、後に外務大臣や農商務大臣を勤めています。
松平太郎の墓
勝海舟の部下の陸軍奉行並で、榎本艦隊とともに箱館に渡った松平太郎の墓があります。
箱館政権の選挙で副総裁に選ばれ、榎本の「洋才」と松平の「和魂」と呼ばれました。
降伏後は開拓使を経てロシアや中国で商売をしますがうまくいかず、晩年は不遇でした。
大鳥圭介の碑
大鳥圭介は幕府陸軍の最高幹部の一人、歩兵奉行で、伝習隊(歩兵部隊)を率いて市川で土方歳三たち旧幕臣と合流します。
以後宇都宮、会津と転戦し、榎本艦隊と合流して蝦夷に渡り、箱館政権の陸軍奉行となります。
降伏後は開拓使を経て技術官僚となり、のちに外交官となっています。
澤太郎左衛門の碑
澤太郎左衛門は幕府軍艦「開陽丸」の副艦長で、鳥羽伏見の戦いの時、命令を受けて徳川慶喜を江戸に運びました。
家督を長男に譲って榎本艦隊に合流し、「開陽丸」艦長となります。
箱館では開拓奉行となりますが、室蘭で降伏します。
降伏後は開拓使を経て、海軍教官になっています。
爵位を賜りそうになりますが断っており、これは戊辰戦争で亡くなった仲間を思ってのことという説があります。
永井尚志・永井岩之丞の碑
永井尚志(ながい なおゆき)は幕府若年寄で、榎本武揚とともに蝦夷に渡って箱館奉行となりました。
降伏後は開拓使や元老院権大書記官を勤めています。
永井岩之丞は永井尚志の養子で、養父とともに五稜郭に立てこもりました。
降伏後は判事になっています。
この父子は、三島由紀夫の曾祖父と高祖父にあたります。
荒井郁之介の碑
荒井郁之介は幕府の軍艦頭で、榎本武揚とともに江戸を脱走し、箱館政権で海軍奉行を勤めています。
降伏後は開拓使を経て気象学を学び、初代中央気象台長となっています。
高松凌雲の碑
高松凌雲は幕府の奥詰医師で、慶応3年からパリの医学学校に留学していました。
帰国した時には既に江戸城は無血開城されており、高松凌雲は榎本艦隊と合流して蝦夷へ向かいます。
箱館では箱館病院の院長として、パリで学んだ精神から、敵味方を問わずに治療を行いました。
降伏後は東京で鶯渓病院を開き、貧民を無料で診察する「同愛会」を作りました。
佛磨大和尚の墓
彰義隊士の供養をした当時の円通寺住職・佛磨大和尚の墓。
処罰されるのを覚悟の上で、上野で野ざらしになっていた彰義隊士の供養を行い、10日ほど拘束されましたが、幕府軍側の供養を行う官許を得ます。
三幸翁の碑
彰義隊士を供養したり「死節之墓」を作った、寛永寺御用商人・三河屋幸三郎(「三幸」を営む)の碑です。
大澤常正の碑
明治時代の弁護士で、明治維新後、彰義隊に関する世話人を務めた大澤常正の碑です。
新門辰五郎の碑
幕末の火消の頭で、勝海舟とも交流があった新門辰五郎の碑です。
娘の芳(よし)は徳川慶喜の愛妾になっています。
上野戦争では、彰義隊の本陣になっている寛永寺(現・上野公園含む)のお堂などの防火に勤めました。
弾除けにする古畳や空俵を上野へ運ぶなど協力したと伝わっています。
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円通寺の御朱印
円通寺の御朱印は1種類。
近代的な本堂の1階の寺務所でいただきました。
円通寺の他の見どころ
首塚と七重の石塔、板碑4基
首塚と七重の石塔があり、その足元に板碑4基があります。
源義家が奥羽征伐の後、敵の首48をここに埋めて首塚を作り、この塚が「小塚原」の地名の由来になりました。
首塚の上に、寺の由緒が刻まれた七重の石塔があり、その足元に1296年(永仁4年)の板碑4基があります。
荒川区指定文化財になっています。
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よしのぶ地蔵
1963年3月31日に台東区下谷で誘拐され、円通寺境内の墓地で殺害され埋められた村越吉展ちゃん(4歳)が2年後に発見されました。
吉展ちゃんの冥福を祈って建立されたのがよしのぶ地蔵です。
この事件では、人命尊重のため「報道協定」が初めて行なわれ、誘拐に関する刑法が改正されるなど、大きな影響がありました。
円通寺の歴史
791年、坂上田村麻呂によって創建されたと伝わります。
その後、源義家が敵の首を埋めて首塚を作り、寺を再興しました。
戊辰戦争では、当時の住職が彰義隊士の供養をし、幕府軍側の供養をする官許を得ています。
円通寺でなら大っぴらに幕府軍側の供養ができることから、幕府軍側の関係者がよく参詣する寺になりました。
円通寺周辺の新選組ゆかりの地・観光スポット
小塚原回向院
新選組隊士・横倉甚五郎が、坂本龍馬暗殺容疑で獄中死した後、一時埋葬された場所です。
小塚原刑場の刑死人や、獄中死した罪人を埋葬する常行堂というお堂があり、それが小塚原回向院の前身です。
横倉甚五郎はのちに八王子の大法寺に改葬されています。
また、永倉新八の友・雲井龍雄の古い墓石があります。
こちらも、後で故郷に改葬されています。
延命寺
小塚原刑場の跡地に建っている寺。
永倉新八が、友・雲井龍雄が斬首になったと高札で知って駆けつけ、晒された首級と再会して涙を流した場所です。