矢河原(やっから)の渡し跡は、近藤勇が流山を後にする時に使った渡し場です。
ここから流山を去って出頭し、二度と戻ることはありませんでした。
流山の加村と対岸の埼玉県三郷市を結んでいた渡し場で、加村の渡しとも呼ばれたほか、三郷市側ではそこにあった前間(ぜんま)村の名から「前間(ぜんま)の渡し」と呼ばれていました。
ここでは矢河原の渡しについて紹介します。
矢河原(前間)の渡し跡のアクセス・基本情報
矢河原(前間)の渡し跡のアクセス・基本情報
住所(流山側) | 千葉県流山市加6丁目1314-37 |
アクセス(流山側) | 流鉄流山線流山駅から徒歩7分 |
駐車場(流山側) | ナビパーク流山加第4など |
公式サイト | 流山市観光協会「流山の江戸川渡し場」 |
住所(三郷側) | 埼玉県三郷市田中新田281-29 |
アクセス(三郷側) | JR武蔵野線三郷駅から「早01 三郷駅北口行」バス乗車、「カトレア公園前バス停」下車、徒歩9分 |
駐車場(三郷側) | 江戸川第三運動公園駐車場など |
矢河原(前間)の渡し跡の地図
矢河原(前間)の渡しと近藤勇
新政府軍に出頭する近藤勇
本陣にしていた永岡家を新政府軍に囲まれた近藤勇は、幕府の臣下「大久保大和」として出頭することになります。
「武装してここにいたのは脱走兵の取り締まりのためで、新政府軍に敵対するつもりではない」という抗弁のためです。
まず、越谷宿(こしがやじゅく・現在の埼玉県越谷市)に向かうことになります。
新政府軍に包囲されてから出頭までのことは、この記事に詳しく書いています。
矢河原の渡しを使って流山を離れる
新政府軍が本陣を置いた流山浅間神社からさらに北に行った場所に、矢河原(やっから)の渡しがあります。
近藤勇は支度のために斥候隊を待たせた後、4月3日の午後10時過ぎに本陣を出立し、この矢河原の渡しを使って流山を後にします。
そのまま、二度と戻ることはありませんでした。
「大久保大和」を名乗った近藤勇は、越谷宿から板橋宿(いたばししゅく)に出頭させられ、そこで近藤勇だと正体を暴かれます。
流山を脱出した土方歳三は、勝海舟邸を訪ねたり、「幕府の命令でやっていた」と幕臣に口添えの手紙を書いてもらって板橋に届けさせたりと、助命のため奔走します。
しかし、正体を暴かれた近藤勇が助命されることはなく、4月25日、板橋宿で斬首されます。
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矢河原(前間)の渡しを両岸から見る
流山側の矢河原(やっから)の渡し
矢河原の渡しに登る土手の前に、小さなせせらぎがありました。
当時からあったものかどうかはわかりませんが、近藤勇もこんな風景を見たのでしょうか。
夜だったはずなので、印象は違うでしょうが…
流山側から見た対岸。
対岸は埼玉県三郷市です。
近藤勇から見ると、渡る前に見た景色ということになります。
川を背に振り返ったあたりに標柱があります。
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三郷市側は前間の渡し(矢河原の渡しと同一)
矢河原の渡しの三郷市側。
近藤勇から見ると、川を渡った後に振り返った景色ですね。
三郷市側は「前間(ぜんま)村」にあったので、「前間の渡し」と呼ばれていたようです。
河原に公園があって、川までは少し遠いです。
土手の上に標柱があります。
ここから最初に出頭した越谷宿までは13キロ、歩いて2時間40分ほどです。
三郷市側に行ったのが3月上旬で、土手は一面の菜の花でした。
矢河原(前間)の渡しの歴史
流山側の「矢河原(やっから)の渡し」を含む「加村」は、田中藩の飛び地領でした。
歩兵が流山にいると新政府軍に通報した田中藩です。
加村にあったので、加村の渡しとも呼ばれていました。
「河岸(かし)」という物流の拠点がこの近辺にあり、年貢米を江戸に運んだりしていました。
江戸から上がってくる鮮魚などでもにぎわっていて、その河岸に行くため、対岸からの足として矢河原の渡しが使われていました。
その後、明治11年に公営の渡し場になり、昭和35年頃まで使われていました。
「や」はこの地方の方言で、河原の葦(あし)のことと言われています。
葦の河原、という意味ですね。
対岸では前間(ぜんま)村にあったので、前間の渡しと呼ばれていました。
矢河原(前間)の渡し周辺の新選組ゆかりの観光スポット
流山市立博物館
田中藩の下屋敷があった場所に建っています。
近藤勇が本陣を置いた永岡家の当時の階段や、流山での新選組についての展示があります。
流山浅間神社|御朱印あり
新政府軍がこの神社の裏に本陣を敷き、菊のご紋の旗を立て、近藤勇の本陣に向かって大砲を並べました。
近藤勇本陣跡
近藤勇が流山で本陣とした永岡家(通称長岡屋)の跡。
近藤勇と土方歳三の別れの地です。