欣浄寺(ごんじょうじ)は、日野市の浄土宗のお寺で、井上源三郎資料館(井上源三郎生家)の斜め向かいにあります。
新選組六番隊隊長・井上源三郎ゆかりの寺子屋顕彰碑があり、台座の裏に井上源三郎や、新選組にゆかりの人々の名も載っています。
また、佐藤彦五郎が道場を作る前、日野の天然理心流が境内で稽古しており、井上源三郎もここで稽古しました。
ここでは欣浄寺を紹介します。
日野欣浄寺のアクセスと基本情報
日野欣浄寺のアクセスと基本情報
住所 | 日野市日野本町4-16-17 |
アクセス | JR中央線日野駅から徒歩5分 |
駐車場 | 周辺コインパーキング コムパーク日野本町20分100円 |
関連サイト | 日野市観光協会欣浄寺 |
日野欣浄寺の地図
日野欣浄寺と新選組
天然理心流の稽古が行われた欣浄寺
最初のうち、日野の天然理心流門人は、井上源三郎の生家・井上家で稽古していました。
人が増えたので、井上家向かいの欣浄寺で稽古するようになります。
さらに人が増えたため、井上家菩提寺でもある宝泉寺に稽古場所を移しました。
そうこうするうち、佐藤彦五郎が日野宿本陣に道場を開いたので、そちらで稽古するようになりました。
井上源三郎が通った寺子屋の先生の顕彰碑
井上源三郎が通っていた寺子屋は、日野宿金子橋(日野駅前郵便局の方)にありました。
寺子屋を主催していた井上源三郎の師は、八王子千人同心でもあった日野義貴です。
日野義貴は文久3年(1863年)8月に亡くなり、翌年1864年、この欣浄寺に碑が建てられました。
時期としては、芹沢鴨の暗殺1か月前に亡くなり、第一次長州征伐の頃に碑が建てられたことになります。
井上源三郎は六番隊隊長として京にいましたが、この碑に門人として名を連ねています。
台座裏に井上源三郎の名前
碑の台座裏に門人たちの名があり、上段中ほどに「井上源三良」という表記で、名が記されています。
顕彰碑には新選組にゆかりある人物が名を連ねる
ほかに、新選組に関わりのある人物がたくさん碑に名を載せているのでピックアップしてみます。
門人:佐藤源之助(土方歳三の甥)
佐藤源之助は佐藤彦五郎の長男(土方歳三の甥)で、新選組に入隊を希望しましたが、名主の家を継ぐ長男でもあり、母のノブ(土方歳三の姉)の反対もあり、入れませんでした。
のちに春日隊で甲州勝沼の戦いに行き、敗走後は詮議されて刀を取り上げられました。
それを知った土方歳三が、拝領刀「越前泰継」を贈り、その刀は佐藤彦五郎資料館に展示されています。
門人:馬場兵助(天然理心流・浪士組で一緒に上洛)
馬場兵助は天然理心流の門人で、日野の佐藤道場で稽古していました。
日野八坂神社に奉納した天然理心流扁額にも名を載せています。
浪士組が上洛した時、馬場兵助も試衛館メンバーとともに上洛しました。
妻子持ちだったので、浪士組が帰郷することになった時、近藤勇に説得されて帰郷。
その後は新徴組として江戸で働き、隊士募集に土方歳三が江戸に来た時、品川の釜屋まで見送りに行ったりしています。
戊辰戦争では新徴組隊士として庄内で戦い、庄内藩の開墾をし、明治に日野に戻りました。
世話人:佐藤彦五郎(土方歳三義兄)
佐藤彦五郎は日野宿本陣に住んでいた名主で、佐藤道場を作って、土方歳三と近藤勇が出会うきっかけを作りました。土方歳三の義兄(姉の夫)で、近藤勇と義兄弟の盃を交わし、資金援助をし続け、甲州勝沼の戦争では春日隊を作って武力面でも援助し、明治になってからは新選組の名誉回復に動くなど、新選組を支援し続けた人です。
世話人:井上松五郎(井上源三郎の兄)
井上松五郎は井上源三郎の兄で、八王子千人同心です。
上洛した時に、新選組メンバーの相談に乗った日記などを残していて、とても信頼されていたことがわかります。
現在井上源三郎資料館を運営しているのは、家を継いだこの松五郎さんの子孫の方です。
世話人:日野久兵衛(土方家親戚)
日野宿で旅籠を営んでいた人で、土方家の親戚。石田散薬の取引先でもありました。
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顕彰碑を建てた人々も戊辰戦争へ
顕彰碑を建てた長男・日野義順は近藤勇の襲名披露にも参加
日野義貴の顕彰碑を建てたのは、長男の日野義順。
天然理心流の門人で、大國魂神社での近藤勇の襲名披露の野試合に、紅組として参加。
山南敬助を含む部下率いる隊長として活躍しました。
土方歳三とも親交があったと言われています。
戊辰戦争では彰義隊に参加。上野戦争で敗戦し捕らえられます。
釈放後は、教師になって今の日野第一小学校で校長になり、のちに日野の町長になり、自由民権運動にも参加しました。
碑文を書いた河野仲次郎も彰義隊で戦う
碑文を書いたのは、八王子千人同心の千人頭、河野仲次郎通聿です。
戊辰戦争では、河野仲次郎も彰義隊に入り、上野戦争を戦います。
が、敗戦して捕らえられます。
釈放後は、慶応義塾で学んで大蔵省に入っています。
井上源三郎と二つの欣浄寺
井上源三郎は鳥羽伏見の戦いで命を落とし、甥の12歳の新選組隊士・井上泰助が首を持ち帰ろうとします。
が、重くて隊列を遅れがちになり、京にあった欣浄寺(ごんじょうじ)という、故郷の欣浄寺と同名のお寺の門前に首を埋めます。
その話は泰助の息子の嫁が、年を取ってから語り伝えていたのですが、井上家の目の前に同名の欣浄寺があったため、「おばあさん、欣浄寺は家の前のお寺でしょう」と、年寄りの勘違いと思われていました。
その後、京に廃寺になった欣浄寺があったのがわかり、子孫が京の欣浄寺跡の土を持ち帰っています。
ここはそんな、「井上源三郎の故郷の方の欣浄寺」です。
日野欣浄寺の歴史
1620年に硯伝という僧が庵を結んだのが始まりです。
1644年に、増上寺の長老・超誉という僧が改めて開山しました。
明治5年には、日野第一小学校の前身になった私塾が、佐藤彦五郎や日野義順によって境内で開かれました。
大正7年の火災で山門以外はすべて焼けてしまい、昭和4年に再建されています。
日野欣浄寺周辺の新選組ゆかりの観光スポット
井上源三郎資料館|第1・3日曜
欣浄寺斜め向かい。
井上源三郎の生家で、兄の子孫が運営する資料館。
2つの欣浄寺と井上源三郎の首についての解説や、井上松五郎が新選組メンバーの相談に乗った日記、近藤勇が井上松五郎に贈った刀「大和守秀圀」などが展示されています。
日野北原とんがらし地蔵尊
欣浄寺の門前。
沖田総司と姉・ミツがお参りしていたという伝承があります。
日野八坂神社
天然理心流が奉納した扁額があり、近藤勇、沖田総司、井上源三郎、井上松五郎や馬場兵助たちの名があります。