明治24(1891)年4月、斎藤一(藤田五郎)は現在の湯島聖堂の敷地内にあった博物館の看守(守衛長)として働き始めます。
その後、隣の東京高等師範学校で撃剣師範を勤め、さらにその隣の東京女子高等師範学校で庶務会計としても勤めています。
また、高等師範学校ができる前にあった昌平坂学問所は、幕末には湯島聖堂の敷地内で、後の新選組隊士・大野右仲が、学友の高杉晋作と友情を育んでいました。
浪士組の清河八郎、殿内義雄や、箱館政権の榎本武揚、新選組と縁のある佐久間象山もここで学んでいました。
この記事では、斎藤一や大野右仲のゆかりの地・湯島聖堂を紹介します。
湯島聖堂のアクセス・基本情報
湯島聖堂のアクセス・基本情報
閉門日 | 夏季休業8/13~17 年末休業12/29~31 |
開門時間・大成殿公開日 | 3~10月 9:30~17:00 11~2月 9:30~16:00 大成殿公開 土日祝、1/1~4 |
住所 | 東京都文京区湯島1-4-25 |
アクセス | JR御茶ノ水駅聖橋口から徒歩6分 錦糸町駅前・蔵前駅前・新御徒町駅前・御徒町駅前から「都02系統」大塚駅前行きバスで湯島4丁目バス停下車徒歩11分 |
駐車場 | 使えないため周辺コインパーキング利用 ジャストパーク外神田第1(20分400円)など |
公式サイト | 湯島聖堂公式サイト |
湯島聖堂の地図
明治の湯島聖堂と斎藤一(藤田五郎)
斎藤一(藤田五郎)と博物館看守時代
現在の湯島聖堂大成殿を陳列場として、明治4(1871)年、博物館が開かれます。
この博物館は一度上野に移転しますが、明治22(1889)年、東京高等師範学校附属となり、湯島聖堂構内に再移転します。
明治の地図を見ると、移転後の博物館は現在の湯島聖堂構内・斯文会館(しぶんかいかん・御朱印などをいただける湯島聖堂事務局の建物)より少し北に建っていたようです。
(当時は斯文会館や神農廟はありませんでした)
斎藤一は明治に藤田五郎と名を変え、東京で警視庁に勤めていました。
明治24(1891)年、警視庁で大規模な人員整理があり、斎藤一(藤田五郎)は警視庁を辞めます。
そして明治24(1891)年4月、47歳の時、この東京高等師範学校附属博物館の看守(守衛長)となります。
この時、高等師範学校の校長は元会津藩若年寄で、斎藤一(藤田五郎)の結婚式の仲人も勤めた山川浩でした。
山川浩は明治には旧会津藩士を寄宿させたり就職の世話をしたりしており、斎藤一(藤田五郎)も山川浩の縁で就職したと思われます。
月給は「12円」で、記録に残っている警視庁時代の明治19年の月給「18円」より下がっています。
同じ年、東京女子高等師範学校の舎監をしていた斎藤一(藤田五郎)の妻・時尾は、体調を崩して通いが難しくなったため自宅で寄宿舎を始めました。
湯島聖堂から徒歩20分ほどの借家に、東京女子高等師範学校の生徒を受け入れています。
現在の斯文会館近くに、仰高門という門があり、外から向かって左側に小さな門衛(守衛の詰め所)があります。
そこが当時の博物館の門衛で、斎藤一(藤田五郎)はここで勤務していたと言われています。
仰高門は斎藤一(藤田五郎)の死後、大正12(1923)年の関東大震災で焼けてしまいました。
昭和10(1935)年に、門衛もついた形で復元されています。
上の「仰高」の扁額は、徳川圀順公爵(水戸徳川家第13代当主)の書いたものです。
斎藤一(藤田五郎)と東京高等師範学校時代
現在の東京医科歯科大学の敷地は、湯島聖堂とは道一本隔てた隣です。
そこに、東京高等師範学校が建っていました。
当時はその場所も、湯島聖堂と同じ東京高等師範学校の敷地でした。
現在は東京医科歯科大学が建っており、昌平坂学問所跡の案内板があるだけです。
斎藤一(藤田五郎)は博物館守衛の後、明治31(1898)年、54歳の頃まで、東京高等師範学校の撃剣師範として、学生に剣道を教えました。
誰一人竹刀に触れることすらできない強さだったと伝わっています。
斎藤一(藤田五郎)と東京女子高等師範学校時代・その後
明治32(1899)年、55歳の頃、斎藤一(藤田五郎)はさらに隣の東京女子高等師範学校に、書記(庶務兼会計掛)として勤めます。
東京女子高等師範学校も、現在の東京医科歯科大学の敷地の西の端にあり、当時は湯島聖堂や博物館・東京高等師範学校と同じ敷地でした。
斎藤一(藤田五郎)は朝夕には、登校してくる生徒の人力車の交通整理もしていました。
現在は案内板も何もありません。
自宅で妻・時尾が運営する寄宿舎も、寄宿舎の主人が東京女子高等師範学校の職員ということで保護者からの信用も高く、11人もの寄宿生が住んでいました。
明治42(1909)年、66歳になった斎藤一(藤田五郎)は東京女子高等師範学校を退職します。
その6年後の大正4(1915)年9月28日、斎藤一(藤田五郎)はここから徒歩20分ほどの寄宿舎をしていた家で、胃潰瘍で亡くなりました。
72歳でした。
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大野右仲が高杉晋作と友情を育んだ湯島聖堂
湯島聖堂は、幕末には昌平坂学問所の敷地内の附属施設でした。
現在湯島聖堂から道を渡ってすぐのところ、隣にある東京医科歯科大学の敷地に、幕末には昌平坂学問所(昌平黌・しょうへいこう)が建っていました。
湯島聖堂から道を渡って西側の向かい、東京医科歯科大学沿いの道に、「近代教育発祥の地」の案内板があり、解説されています。
のちに仙台で新選組に入る唐津藩士・大野右仲は、安政3(1856)年、21歳の時から昌平坂学問所で学んでいます。
この時、長州藩士・高杉晋作も学んでおり、大野右仲と「真の知己なり」(真の親友である)と呼び合い、親しくしていました。
高杉晋作は結核のため、慶応3(1867)年4月14日に下関で亡くなります。
大野右仲は幕府老中の小笠原長行に仕え、戊辰戦争では会津で土方歳三と面識を得ます。
その後仙台で、唐津藩士を取りまとめて新選組に入隊し、土方歳三を補佐する陸軍奉行添役となります。
土方歳三が戦死した明治2年5月11日は、途中まで土方歳三と一緒でしたが、先に弁天台場に行くよう命じられて出撃。
土方歳三が敗走しようとする兵を止めてくれるはずなのに止まらないことから、不思議に思って戻ったところ、土方歳三の戦死を知ります。
のちに「函館戦記」を執筆し、当時の状況のほか、土方歳三の死を嘆く悲痛な詩を載せています。
墓は谷中霊園の天王寺墓地にあります。
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新選組・浪士組関係者と湯島聖堂
浪士組を作った清河八郎、浪士組メンバーの殿内義雄や、箱館政権の榎本武揚、新選組と縁のある佐久間象山も、年代はそれぞれ違いますが昌平坂学問所で学んでいました。
湯島聖堂の御朱印
湯島聖堂で御朱印をいただける場所
湯島聖堂は寺でも神社でもなく、「史跡」扱いとなります。
しかし孔子を祀っていることもあってか、御朱印がいただけます。
御朱印がいただけるのは斎藤一が勤めた仰高門の北側、事務局がある斯文会館(しぶんかいかん)です。
建物に入ってすぐの受付窓口にお願いすると、300円で授与していただけます。
湯島聖堂の御朱印
湯島聖堂の御朱印は力強い筆致で、「孔子廟」とスタンプが押されています。
昌平坂学問所があった関係で、「学問成就」とも書いてありますね。
オリジナル御朱印帳はありませんでした。
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湯島聖堂のお守り・御利益
湯島聖堂の御利益
湯島聖堂は寺や神社ではないのですが、中国の学問の神でもある孔子が祀られており、幕末のエリートが学んだ昌平坂学問所の附属施設でした。
このため、学問成就や合格祈願の御利益が信じられています。
受験シーズンには、受験生や家族が合格祈願に訪れています。
また、構内には中国の農業・医療の神である「神農」廟があります。(普段は非公開)
このため、医療や健康の御利益も信じられています。
さらに、神農の子孫とされる「融通王」(弓月君・ゆづきのきみとも言う)が日本初の露天店を開いたという伝説のため、香具師・てき屋業界の守り本尊としても信仰されています。
湯島聖堂のお守り
湯島聖堂のお守りは、大成殿の開館日(土日祝日と1/1~4)は大成殿の中で頒布しています(拝観料200円)。
それ以外の日も、拝観料がかかる場所に入場しない場合も、御朱印をいただくのと同じ、仰高門北側の斯文会館(しぶんかいかん)事務局でお守りを頒布しています。
お守りには「学問成就守札」や、健康・開運の「神農守札」、「学問成就鉛筆」があります。
受験生へのプレゼントに買う方も多いようです。
また、昌平坂学問所が描かれた「合わせ絵馬」もあります。
2枚の絵馬の内側に願いを書いて、2枚を合わせて紐で結ぶので、願い事を人から見られない作りになっています。
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湯島聖堂の他の見どころ
湯島聖堂の大成殿・孔子廟
湯島聖堂の大成殿は孔子廟
湯島聖堂の大成殿(たいせいでん)は、土日祝日と1/1~4に拝観できます。(200円)
この建物は、孔子を祀る孔子廟です。
もともと、徳川家光に講義をしていた朱子学者の林羅山が、邸内に私塾と孔子廟を作っていました。
これを、元禄3(1690)年、五代将軍の徳川綱吉が現在の場所に移し、孔子廟を拡大して幕府の学問所としたのが始まりです。
中では孔子が祀られています。
上に掲げられている「大成殿」の扁額は、元は徳川綱吉の書いたものでした。
関東大震災で焼失したため、現在のものは皇族で海軍元帥の伏見宮博恭王の筆です。
湯島聖堂のお参りの仕方
寺でも神社でもない湯島聖堂、神社のように二礼二拍手をしていいのか、お寺のように手を合わせるのか悩みますね。
台湾の孔子廟では、ひざまづいて心の中で神様に自己紹介をし、3度お辞儀をするそうです。
ただ実際に見ていると、神社やお寺のどちらかと同じように参拝している人がほとんどで、だからといって咎められたり間違いとされることはありません。
湯島聖堂大成殿内の展示
大成殿内には孔子像が祀られているほか、孟子、顔子などの中国の思想家も祀られています。
関東大震災で落ちた当時の屋根にあった神獣・鬼龍子なども展示されています。
土日祝日と1/1~4の大成殿開館日に見ることができます。
拝観料は200円です。
また、「宥座の器(ゆうざのき)」という孔子の思想を現す器も展示されています。
これは、鎖で吊られた器が空の時はひっくり返っていて、ほどほどに水を入れればきちんと水平になり、いっぱいに入れるとまたひっくり返るというもの。
「虚なれば傾き、中なれば すなわち正しく、満つれば覆る」と言う、孔子の唱えた「中庸の徳」を表現した器です。
「宥座の器(ゆうざのき)」は、拝観料のかからない杏壇門の内側(大成殿に背を向けて右側)にも大きなものがあり、水を入れてみることもできます。
さらに期間によっては、企画展や彫刻展のような展示がある場合もあります。
湯島聖堂大成殿の屋根の霊獣
湯島聖堂の屋根には、霊獣の彫刻があります。
大成殿屋根の左右のしゃちほこのような霊獣は「鬼犾頭(きぎんとう)」という想像上の魚の神です。
日本の城に作られるしゃちほこと同じく、水を吐いて火を消すことから、火除けに祀られています。
屋根の途中の狛犬のような生き物は、「鬼龍子(きりゅうし)」といって、聖人である孔子の徳に感じて現れる霊獣です。
体が虎や豹に似た猫科の獣で、腹は龍の腹だそう。
湯島聖堂のスダジイ(大成殿前)
大成殿に入る手前、杏壇門前にスダジイの巨木があります。
関東大震災に耐えて残ったものと思われます。
他にも構内には、スダジイの巨木が何本かあります。
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湯島聖堂の門
斎藤一(藤田五郎)が勤務した仰高門は最初の方で紹介したので、それ以外の門を紹介します。
湯島聖堂の正門は?
湯島聖堂の正門は、車が入れる、仰高門の手前の道路から敷地に入る場所(斯文会館近く)で、特に門の建物などはありません。
湯島聖堂の聖橋門
東京医科歯科大学との間の道から、湯島聖堂の敷地に入る門です。
御茶ノ水駅聖橋口から一番近く、湯島聖堂の案内板が立っています。
階段を降りて、入徳門からまた上がると大成殿になります。
湯島聖堂の入徳門
湯島聖堂構内に入ってから、大成殿に上がる階段下の門です。
宝永元(1704)年建造で、関東大震災でも空襲でも焼け残りました。
斎藤一(藤田五郎)が勤めた当時や、大野右仲が昌平坂学問所で学んだ当時から残っている唯一の建造物です。
上の扁額「入徳門」の文字は、江戸時代中期の公家・藤原基輔の書いたものです。
杏壇門
杏壇門は、大成殿に入る手前の黒塗りの門です。
入ると前庭があり、その奥に大成殿があります。
また入って振り返った左側には湯島聖堂の歴史、右側には「宥座の器(ゆうざのき)」の展示があります。
関東大震災で焼けて、昭和10年に再建されました。
上の扁額「杏壇」の文字は、明治の徳川家当主、徳川家達(とくがわいえさと)公爵の書いたものです。
湯島聖堂の明神門
明神門は斯文会館裏手の、神農廟に行く途中の別れ道から行ける門ですが、普段は閉鎖されています。
この門の先に神田明神があることから、明神門と名づけられました。
関東大震災で焼けて、昭和10年に再建されました。
湯島聖堂の水屋
湯島聖堂の水屋は、関東大震災でも焼け残りました。
が、太平洋戦争の空襲で焼けてしまい、再建されました。
湯島聖堂の孔子像
大成殿から斯文会館へ行く途中、世界最大の孔子の銅像があります。
昭和50年に台湾のライオンズクラブが寄贈したもの。
湯島聖堂の楷樹
孔子像のそばに楷樹(かいじゅ)があります。
楷樹は中国・曲阜にある孔子の墓のそばに植えられている木で、孔子廟によく植えられます。
孔子の墓の楷樹の種子を持ち帰って大正時代に育苗し、植えられたのが湯島聖堂の楷樹です。
湯島聖堂の神農廟(非公開)
斯文会館の奥に、医薬と農業の神・神農を祀った神農廟があります。
神農像は寛永17(1640)年、徳川家光の命で作られ、元禄11年(1698)4月から現在地近くに祀られていました。
明治16(1883)年に一度、医学生を育てた功績で浅田家という家に移りますが、昭和18(1943)年に神農像が寄贈されて戻ってきます。
普段は神農廟に行く門は閉まっていて、毎年11月23日の神農祭の日だけ一般公開しています。
湯島聖堂の築地塀
湯島聖堂外側、聖橋からも見える塀は、築地塀(ついじべい)と呼ばれるものです。
骨組みに練り土を入れて棒でつき固める工法です。
湯島聖堂の築地塀は、練った泥土と瓦を交互に積み重ねて築いたもので、練塀とも呼ばれます。
この築地塀は、広重の浮世絵にも描かれています。
ロケ地になる湯島聖堂
湯島聖堂は、「西遊記」のロケ地や「仮面ライダー」シリーズのロケ地になっています。
また、さだまさし「檸檬」の歌にも出てきます。
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湯島聖堂とは:歴史
湯島聖堂と昌平坂学問所の創設:徳川綱吉と林羅山
湯島聖堂の前身は、上野で林羅山が開いていた朱子学(儒教の一派)の私塾と孔子廟です。
儒学者・木下順庵に学んだ徳川綱吉は儒教を重視していました。
現在地に移転した後、元禄3(1690)年、徳川綱吉が林信篤を大学頭として、ここに学問所を開きます。
それから100年ほど後、朱子学が衰えてきますが、松平定信は朱子学を擁護した「寛政異学の禁」を出します。
それに伴って寛政9(1797)年、湯島聖堂の学問所を現在の東京医科歯科大学の敷地まで拡張して昌平坂学問所とし、幕府直轄の教育機関とします。
「昌平」とは孔子が生まれた村の名前です。
それ以降、昌平坂学問所は江戸幕府の中心的な教育機関になっていきます。
一時は、湯島聖堂に平賀源内が寄宿して、本草学を学んでいました。
また、儒学者の佐藤一斎は幕末に昌平坂学問所の儒官(総長)となり、日米和親条約の締結でも大学頭:林復斎の補佐をしました。
佐藤一斎の弟子には、新選組とも縁のある西洋砲術家・佐久間象山や、渡辺崋山、公武合体を推進した横井小楠などがいます。
後に新選組隊士となる大野右仲も、幕末に昌平坂学問所で学んでいます。
明治の湯島聖堂
明治4年、昌平坂学問所は閉鎖されます。
明治5年、大成殿で、日本初の博覧会が開かれます。
これがきっかけで大成殿に展示が置かれるようになり、博物館となります。
博物館は一時転居した後、現在の斯文会館少し北にふたたび博物館が設置されます。
明治24年には斎藤一(藤田五郎)がその博物館の看守(守衛長)となり、仰高門で勤務しています。
当時は同じ構内だった現在の東京医科歯科大学の敷地に東京高等師範学校、東京女子高等師範学校ができます。
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湯島聖堂と関東大震災・空襲
大正12年の関東大震災で、入徳門と水屋以外はすべて焼けてしまいます。
昭和10年に再建されましたが、昭和20年の太平洋戦争の空襲で、入徳門の透塀の一部と、水屋などが焼け、神田川沿いの練塀の一部が壊されています。
また、この時火が燃え移った神農廟近くの大銀杏が、水を噴き出して自分が延焼するのを止めたという伝承があります。
現在の湯島聖堂
現在、東京高等師範学校や東京女子高等師範学校が建っていた場所は、湯島聖堂隣の東京医科歯科大学の敷地になっています。
孔子を祀っていた大成殿や門などだけが、湯島聖堂として今に残されています。
湯島聖堂のイベント・行事
湯島聖堂の桜・花見
湯島聖堂の桜は少ないですが、斎藤一(藤田五郎)が勤めた仰高門の内側にかかるように咲くので、斎藤一ファンにとっては見どころです。
シートを敷いての花見はできないので、構内を見学しながら桜も見る感じです。
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湯島聖堂のあじさい
6月中旬から7月にかけて、入徳門や水屋近くなどに、あじさいやがくあじさいが咲いていて風情があります。
湯島聖堂の初詣
湯島聖堂は年末は休みなので、大晦日の夜からの初詣はできません。
1月1~4日の昼間には、大成殿が開かれていて初詣ができます。
元旦には大成殿前で「論語」の素読始めも行われています。
湯島聖堂4月の孔子祭
湯島聖堂では4月第4日曜に孔子祭があります。
孔子廟に酒や野菜などを供えての神事や献茶があり、論語の講義も行われます。
湯島聖堂5月の鍼灸祭
5月第3土曜には、鍼灸祭があります。
鍼灸団体による使用済み鍼の供養のほか、講演などがあります。
湯島聖堂の文化講座・検定
文化講座や検定も湯島聖堂で開かれています。
論語素読のほか、漢文検定講座や健康太極拳講座などがあります。
百人一首大会の会場にもなっています。
湯島聖堂周辺の新選組ゆかりの地・観光スポット
藤堂秉之丞屋敷跡(藤堂平助の父親候補)|何もなし
藤堂平助は身分ある父親の正妻以外の女性との子で、父親候補が二人います。
一人は伊勢津藩主の藤堂高猷(とうどうたかゆき)、もう一人が湯島聖堂近くに住んでいた、旗本の藤堂秉之丞(とうどうへいのじょう)です。
現在の東京医科歯科大学の北側に、藤堂秉之丞の屋敷がありましたが、案内板も何もありません。
撃剣館跡|何もなし
岡田十松が開いていた神道無念流道場で、永倉新八が通っていました。
現在は案内板も何もありません。
津藩主藤堂家屋敷跡(藤堂平助の父親候補)|案内板
藤堂平助の父親候補のもう一人、伊勢津藩主・藤堂高猷(とうどうたかゆき)の屋敷跡です。
藤堂家の屋敷だった案内板が残っていますが、藤堂平助には触れられていません。
西洋医学所跡|何もなし
鳥羽伏見の戦い後や、甲陽鎮撫隊の敗戦後、近藤勇や沖田総司、斎藤一が手当を受けた西洋医学所の跡です。
ここに永倉新八と原田左之助が来て近藤勇に会津に行くよう説得しますが、折り合わずに新選組を脱退します。
現在はその場所には何もなく、少し北に行った交差点に、西洋医学所の前身・種痘所を作った伊東玄朴居住地の案内板があり、その中で種痘所も解説されています。