護国寺には、共葬墓地の方に新選組隊士・谷口四郎兵衛の墓があります。
また、護国寺墓地には盛岡藩主の南部利剛・利恭親子の墓や、大隈重信や三条実美、山縣有朋など、幕末から明治維新にかけての重要人物の墓があります。
護国寺の東半分を使って作られた豊島岡墓地には、奥羽列藩同盟盟主で永倉新八に命を下したこともある、輪王寺宮能久親王が眠っています(豊島岡墓地は非公開)。
この記事では、幕末関連の墓を中心に護国寺を紹介します。
護国寺のアクセス・基本情報
護国寺のアクセス・基本情報
本堂拝観時間 | 9:00~12:00 13:00~16:00 |
住所 | 東京都文京区大塚5丁目40-1 |
アクセス | 有楽町線護国寺駅から徒歩11分 本郷3丁目駅、春日駅、茗荷谷駅から「都02」系統大塚駅前行乗車、「大塚3丁目」バス停下車徒歩6分 |
駐車場 | 境内桂昌殿駐車場 |
公式サイト | 護国寺公式サイト |
護国寺の地図
護国寺と新選組隊士・谷口四郎兵衛の墓
谷口四郎兵衛の墓の場所
新選組隊士・谷口四郎兵衛の墓は、「護国寺共葬墓地」にあります。
護国寺本堂背後にある「護国寺墓地」とは違って、護国寺の西の端、首都高速5号池袋線の高架がある小篠坂沿いにあります。
- 護国寺墓地をひたすら西に向かい、階段を降り、高架が見える外の坂沿いの道を探す
- 一度護国寺を出て、護国寺前の不忍通りを「日本大学豊山高等学校・中学校」などを越えて西に向かい、高架沿いの歩道橋のたもとにある共葬墓地入口から入る
のどちらかです。
谷口四郎兵衛の墓は、高架沿いの墓地の端の道に面しています。
歩道橋たもとの共葬墓地入口から入った場合、まっすぐ進んで3本目と4本目の横道の間です。(各家の墓所入口と横道が見分けにくいので注意)
石の柵のようなものに囲まれた「谷口家之墓」です。
一段高くなったコンクリートの塀まで行くと行き過ぎです。
墓の背後(西)に日本大学豊山高等学校・中学校の校舎が見えます。
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谷口四郎兵衛の墓
「谷口家之墓」に合葬されています。
右横の墓誌の右から6番目に「謙徳院 六代守成」と命日が刻まれています。
「謙徳院」が戒名、「六代」は谷口家の何世代目かを表し、「守成」は維新後に使っていた名前です。
谷口四郎兵衛
会津戦争後、仙台で新選組に入隊して箱館に渡った桑名藩士。
箱館政権では差図役になり、土方歳三が救援に行こうとしていた弁天台場で戦っていて右肩を負傷、5月15日に降伏します。
謹慎後に桑名藩預かりとなり、明治には斎藤一と同じく警視庁に入っています。
西南戦争では「新選旅団」として出征し薩摩軍と戦っています。
明治43年12月31日、71歳で死去。
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護国寺と幕末の有名人の墓
大隈重信の墓
大隈重信の墓は本堂の東側に隣接している、門つきの立派な墓です。
門は閉ざされていますが、門前から見ることはできます。
大隈重信
大隈重信は佐賀藩士で、慶応3年、徳川慶喜に大政奉還を勧めようとして謹慎。
明治には新政府の参与となり、外務大臣の時、条約に反対する国粋主義者の襲撃で右足を失いますが、薩長以外で初めての総理大臣となります。
早稲田大学の創設者で、今も早稲田大学による法要が行われています。
大正11年、胆石症で早稲田で亡くなりました。
三条実美の墓(都指定旧跡)
三条実美の墓は本堂の裏手に隣接している、鳥居のついた立派な墓で、東京都の指定旧跡です。
碑や案内板もあります。
三条実美
三条実美は討幕派の中心的な公家で、8月18日の政変で長州に移って大宰府で幽閉、大政奉還で許された人物です。
徳川宗家や奥羽列藩同盟に厳罰を主張し、石高を低く抑え、征韓論では西郷隆盛と対立
します。
太政大臣や内大臣を務め、明治24年にインフルエンザで亡くなりました。
南部利剛・利恭の墓
盛岡藩14代・15代藩主の南部利剛(としひさ)・利恭(としゆき)親子の墓です。
本堂の裏手・三条実美の墓の前を東へ進み、北に曲がって、緑の多い石の塔が並ぶ墓所です。
南部利剛・利恭
南部利剛(なんぶとしひさ)は幕末の盛岡藩藩主で、奥羽列藩同盟に加わります。
降伏後は東京・芝の金地院で謹慎し、隠居と領地没収を命じられます。
長男の南部利恭は、陸奥国白石13万石に減転封された後、白石藩知事・盛岡藩知事となりますが、廃藩置県で辞職します。
山縣有朋の墓
本堂の裏手を奥に進んだところで、鳥居のある大きな墓です。
石の塀に囲まれており、塀の隙間の窓のようになった場所から少し墓が見える程度です。
二基並んだ左が山縣有朋、右は夫人の墓です。
山縣有朋
山縣有朋は長州藩士で松下村塾塾生、奇兵隊隊士です。
北越戦争で新潟で戦い、会津の包囲にも加わった後江戸に戻ります。
西南戦争では政府軍の総指揮を取り、日露戦争では参謀総長を務め、日本軍閥の父と呼ばれました。
大正11年に肺炎で亡くなります。
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護国寺の東半分は皇族の豊島岡墓地(非公開)
豊島岡墓地とは
天皇・皇后両陛下を除く皇族の専用墓地として、護国寺の東半分を使って作られたのが豊島岡墓地です。
明治天皇の第一皇子が死産した時に整備されましたが、非公開で一般の国民が墓参りすることはできません。
護国寺墓地から東側に見える森が豊島岡墓地です。
奥羽列藩同盟盟主・輪王寺宮能久親王の墓(非公開)
豊島岡墓地には、奥羽列藩同盟の盟主・輪王寺宮能久(りんのうじみやよしひさ)親王の墓があります。
非公開なので墓参りすることはできません。
輪王寺宮能久親王
伏見宮邦家親王の第9王子として生まれ、19歳の時江戸に下り、代々皇族が住職を勤めてきた上野寛永寺と日光輪王寺の住職になります。
歴代の住職と同じく「輪王寺宮」と名乗ります。
徳川慶喜の助命を願い、上野戦争でも寛永寺にとどまりましたが、彰義隊(原田左之助も参加)の敗北で脱出。
仙台藩に入り、白石城で奥羽列藩同盟の盟主になります。
この時「東北朝廷」が「東武皇帝」として擁立したという説もあります。
日光を奪還するよう、靖共隊として参戦していた永倉新八たちに命を出したりもしています。
仙台で降伏後は留学、のちに陸軍軍人となります。
明治28年、日清戦争で日本に割譲された台湾で残敵掃討戦を行って平定しますが、マラリアのため亡くなります。
数奇な人生から、日本武尊(やまとたけるのみこと)に喩えられています。
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護国寺の御朱印・お守り
護国寺の御朱印
護国寺の御朱印は、本尊の「如意輪観世音」1種類。
ですが、どの霊場巡りでいただくかにより、右上のスタンプが「江戸三十三箇所」「東国花の寺百ヶ寺」「御府内八十八箇所」になります。
本堂にお参りすると、右側に納経所入口があって本堂内で御朱印をいただけます。
本堂の拝観時間は9:00~12:00と13:00~16:00です。
護国寺の御朱印帳
御朱印帳は見当たりませんでした。
護国寺のお守り
開運お守りや、除災招福のほか、旅行や交通安全、合格などなど、さまざまな種類のお守りがあります。
場所は御朱印と同じ本堂内です。
四万六千日の7/9、10限定の雷避けお守りもあります。
護国寺の御利益
護国寺の本尊・如意輪観音は、福徳をもたらす如意宝珠と、煩悩を打ち砕く法輪を持った仏です。
御利益は病気平癒、健康、安産、招福、智慧などが信じられています。
また、護国寺は徳川綱吉の生母・桂昌院の願いで創建されました。
桂昌院は、元は八百屋のお玉という庶民という説があります。
そのお玉が母の連れ子として武家に入り、大奥の部屋子となり、家光の側室となって将軍の母と成り上がったことから、「玉の輿」という言葉の語源になりました。
そのため桂昌院にちなんで、良縁の御利益も信じられています。
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護国寺の見どころ
護国寺の西南戦争殉職警察官の慰霊碑
西南戦争で戦死した、東京警視庁第四方面第四分署員たちの慰霊碑が、本堂に向かって右手にあります。
斎藤一は第四方面第三分署(後の本郷警察署、現・本富士警察署)にいたことがあるので、近くの署ですね。
護国寺の本堂(国の重要文化財)
護国寺の本堂は、元禄10(1697)年に建てられた国指定の重要文化財です。
関東大震災や戦災にも耐えました。
階段を上がって右手の納経所から、本堂の中に入ってお参りできます。
本堂の拝観時間は9:00~12:00と13:00~16:00です。
本尊の如意輪観音と三十三身像
本尊は元禄13(1700)年10月に寄進された観世音菩薩で、毎月18日に開帳されています。
(普段は幕がかかっています)
元は徳川綱吉の生母・桂昌院の念持仏(個人的に拝んでいる仏像)でした。
願いをかなえる如意宝珠と、煩悩を砕いて仏法を広める法輪を持っています。
考え込むような姿勢は、どのように衆生を救うかを考えていると言われています。
また、本堂には三十三身像も並んでいます。
徳川綱吉の生母・桂昌院が、髪の毛を収めた像です。
護国寺の月光殿(国の重要文化財)|非公開
月光殿は、国指定の重要文化財です。
安土桃山時代に建てられた大津(滋賀県)の園城寺(三井寺)日光院の客殿を、明治の実業家が品川の自分の屋敷に移築したものです。
昭和3年に護国寺が建物を買い取り、境内に移築しました。
非公開ですが、カルチャースクールの講座など団体による特別拝観は行われているようです。
また、時々開催されるチャリティー茶会などで月光殿の牡丹の間が使われることがあるようです。
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護国寺の門
仁王門(区の文化財)
仁王門は正面にある門で、文京区の文化財です。
本堂は元禄10(1697)年造営ですが、それより少し後の建造とされています。
正面に金剛力士(仁王)像、背面には増長天と広目天の二天の彫刻があります。
不老門
不老門は、仁王門から先に進んで石段を上がった先にある門です。
昭和13年(1938)に京都の鞍馬寺の門を参考に作られて寄進されたもの。
上にある「不老」の扁額は徳川家第16代当主(徳川慶喜の次代)・徳川家達(とくがわいえさと)が書いたものです。
惣門(区の文化財)
惣門は仁王門を入る前に右手に進んだところにある、桂昌殿(葬祭場)などの近くにある門で、文京区の文化財です。
江戸中期の建造で、大名屋敷の表門の様式をしています。
元は護国寺隣にあった護持院(明治に廃寺)の門で、江戸中期には護持院が本寺、護国寺は観音堂の扱いでした。
徳川綱吉が、生母の念持仏を祀った護国寺に千人以上の供を連れて参拝したため、将軍と生母を迎えられる格式の高い門として造られました。
護国寺の富士塚
神社に多い富士塚ですが、護国寺では、寺院には珍しい富士塚があります。
文化14(1817)年に作られた後、明治に現在地に移築されたものです。
このあたりの地名から「音羽富士」と呼ばれます。
7メートルほどのミニ富士山ですが、霊峰・富士山に登ったのと同じ御利益があるとされています。
仁王門をくぐり、石段を登る前に右に進んで鳥居の先です。
桂昌院寄進の水盤
仁王門から不老門の間、石段の手前にあります。
徳川綱吉の生母・桂昌院が寄進したもので、元禄10(1697)年鋳造です。
大師堂(区の文化財)
大師堂は元禄14(1701)年建造の薬師堂だった建物を境内で移築したもので、文京区の文化財です。
不老門をくぐって右に進むとあります。
一言地蔵尊
大師堂の左横にあり、一言だけ願いを唱えると叶えてくれると伝わっています。
鐘楼・梵鐘(区の文化財)
大師堂の近くにあり、江戸中期に建造された文京区の文化財です。
梵鐘は天和2年(1682)に寄進され、銘文には徳川綱吉の生母・桂昌院が観音堂(護国寺)を建てた内容が刻まれています。
多宝塔
不老門を入って左手にあり、昭和13年建立です。
京の石山寺の多宝塔(国宝)を模してあり、大日如来が祀られています。
薬師堂(区の文化財)
元禄4(1691)年建立の、文京区の文化財です。
柱間に花頭窓を据えているなど、禅宗様建築の特徴が見られます。
忠霊堂
明治35(1902)年の建設。日清戦争で戦死した軍人の遺骨を弔う銅製の多宝塔が背後にあり、その拝殿として建てられました。
現在、多宝塔は護国寺墓地の旧音羽陸軍墓地に移されています。
護国寺の護摩祈祷
真言宗の護国寺では、正月や節分などの節目行事で護摩祈祷が行われています。
護摩祈祷は真言宗の祈祷方法で、護摩木を燃やして災いを祓い、大願成就を祈ります。
古くは将軍・綱吉も受けた護摩祈祷です。
護国寺の猫
護国寺境内には猫が多く、猫の撮影スポットとしても有名です。
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護国寺の歴史
護国寺は天和元(1681)年、将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院の願いで創建された、真言宗豊山派の寺です。
本尊は桂昌院の念持仏(私室などで個人的に拝んでいた仏像)、天然虎伯の如意輪観世音菩薩像です。
宝永4(1707)年、綱吉が神田に作っていた護持院の住職を護国寺住職が兼任します。
が、享保2(1717)年、護持院が火災で焼け、幕府の命令で護国寺の隣に移転します。
以後、観音堂を護国寺とし、本坊は護持院となり、幕府の祈願寺になりました。
明治に護持院が廃寺となり、護持院だった部分のお堂も護国寺の所属になります。
関東大震災や戦災でも焼け残り、元禄10(1697)年建立の本堂など、貴重な建築物が多く残っています。
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護国寺のイベント・季節の花
護国寺の御開帳
毎月18日、本尊の如意輪観音が開帳されています。
9~12時と13~16時です。
護国寺の骨董市
毎月第二土曜に、本堂周りで骨董市が開かれています。
護国寺の節分(2月)
和太鼓やライブショーのほか、芸能人などのゲストを呼んでの豆まき会が毎年行われています。
護国寺の桜
数は多くはありませんが、本堂周りや石段周り、大仏周辺などに桜があります。
3月下旬~4月上旬が見頃です。
護国寺のつつじ
仁王門近くや本堂に上がる石段の周辺に500株のツツジがあり、4月下旬から5月上旬が見頃です。
護国寺の紫陽花
一言地蔵尊の奥に、紫陽花が咲く小道があります。
6月中旬~下旬が見ごろです。
護国寺の象供養(4月)
大正15年に、象牙団体による第一回の象供養が護国寺で開かれました。
以後、4月15日が象供養の日に制定され、毎年4月15日頃に象供養が行われています。
護国寺の4万6千日(7月)
毎年7月9日、10日は、4万6000日です。
この日参拝すると46,000日分のご功徳があると言われ、19時から本尊の開帳と法要があります。
この2日間だけ授与される、雷避け札があります。
護国寺の慈善茶会・都民の茶会
護国寺は茶道と縁が深く、時々チャリティー茶会が行われています。
普段非公開の月光殿牡丹の間など、いくつかの境内の茶室での茶会で、愛好家に親しまれています。
護国寺周辺の新選組ゆかりの地・観光スポット
佐々木一の墓(雑司ヶ谷霊園)
雑司ヶ谷霊園には新選組隊士・佐々木一の墓があります。(婿養子に入ったため、「並河一」名義)
佐々木一は箱館戦争では5月11日の戦いで負傷、弁天台場に立てこもり、15日に降伏しました。
田村銀之助の墓(智光寺)
智光寺には、新選組隊士・田村銀之助の墓があります。
田村銀之助は12歳で新選組に入隊して箱館までついていき、土方歳三の小姓や榎本武揚の小姓を勤め、伊庭八郎の死についても記録を残しています。