浅田次郎の「壬生義士伝」で有名な新選組隊士・吉村貫一郎は、本名を嘉村権太郎(かむらごんたろう)という盛岡藩士でした。
「壬生義士伝」の設定とは少し違い、藩命で江戸に出、江戸で脱藩して慶応元年の隊士募集で新選組に入り、吉村貫一郎を名乗っています。
少ないですが、東京から日帰りできる範囲にある吉村貫一郎のゆかりの地を紹介します。
東京都千代田区の吉村貫一郎ゆかりの地・観光スポット
北辰一刀流玄武館|碑と案内板のみ
藩命で江戸に出た吉村貫一郎は、玄武館道場で千葉道三郎に師事しました。
現在は碑と案内板だけが残っています。(上の地図の青いピンの場所)
実際には碑から少し西のあたりにありました。(上の地図の黒い囲み部分:推定)
この玄武館には他に、山南敬助、藤堂平助や、浪士組に入って京で病死した阿比留鋭三郎、浪士組を作った清河八郎や浪士組取締役の山岡鉄舟も通っていますが、吉村貫一郎とは通った時期が違っています。
元治元(1864)年からこの玄武館に通った吉村貫一郎は、慶応元(1865)年、盛岡に戻るよう命じられて脱藩します。
そして新選組の隊士募集に応じて京に上ります。
この時江戸に隊士募集に来ていたのは土方歳三、斎藤一、伊東甲子太郎、藤堂平助などです。
玄武館に通ったのは1年ほどでした。
住所 | 東京都千代田区神田東松下町23 |
アクセス | 都営線岩本町駅から徒歩1分 JR秋葉原駅から徒歩7分 |
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史実の吉村貫一郎の最期と墓
「壬生義士伝」では、鳥羽伏見の戦い後、大坂の南部藩蔵屋敷に逃げ込み、家族を養うため「これからは勤王のために働くので匿ってほしい」と頼んで、蔵屋敷差配役の大野次郎右衛門に切腹を申し付けられたというエピソードが有名です。
上のエピソードは、西本願寺侍従の西村兼文が書いた逸話が元になっています。
しかし史実では、大野次郎右衛門という人物は存在していません。
また、伏見の御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)が作った「戊辰東軍戦死者霊名簿」や、史談会の「戦亡殉難志士人名録」、嘉村家の過去帳では、鳥羽伏見や各地の戦闘で戦死となっています。
永倉新八の「新選組顛末記」の巻末にある遺稿(永倉新八が同志名簿やその死因などをまとめたもの)には、吉村貫一郎の欄に「殺害せらる」とだけ書いてあります。
戦死した隊士の欄には「戦死」と書いてあるので、「殺害せらる」は戦死以外の状況を指しているようですが、どのような状況だったかは不明です。
吉村貫一郎は遺体すら行方不明で、西村兼文が書いたような逸話が本当にあったかどうかもすべて謎のままです。
吉村貫一郎の墓は故郷の盛岡市・恩流寺に、本名の「嘉村権太郎」名であります。