南千住の小塚原刑場跡は、永倉新八が斬首になった友・雲井龍雄の首級と再会して涙を流した場所です。
現在、雲井龍雄の首級が晒された小塚原刑場跡には、延命寺という寺が建っています。
ここでは小塚原刑場跡と永倉新八のエピソードとともに、小塚原刑場跡に建つ延命寺を紹介します。
延命寺(小塚原刑場跡)のアクセス・基本情報
延命寺(小塚原刑場跡)のアクセス・基本情報
住所 | 荒川区南千住2-34-5 |
アクセス | JR/日比谷線南千住駅から徒歩3分 |
関連サイト | 荒川区公式サイト「延命寺」 |
延命寺(小塚原刑場跡)の地図
永倉新八と小塚原刑場跡(延命寺)
小塚原刑場跡(現在の延命寺)は、永倉新八が友・雲井龍雄の首級と再会した場所です。
会津戦争での永倉新八と雲井龍雄の出会い
奥羽列藩同盟の盟主となっていた寛永寺住職で皇族の輪王寺宮が、日光東照宮を新政府軍から奪還するよう命じます。
靖共隊を主力として会津に残し、会津藩兵の力を借りて東照宮を奪還しようと、永倉新八は靖共隊隊長・芳賀宜道とともに、高徳宿から会津城下に行きます。
ところが、会津城下は新政府軍が迫って騒ぎになっており、城門も固く閉ざされていて、兵を借りられる状況ではありませんでした。
高徳宿に戻ろうとする途中、幕府軍の総督が会津を目指してきたのに偶然出会います。
この時、幕府軍の総督が一緒にいた米沢藩士、雲井龍雄を永倉新八たちに紹介します。
雲井龍雄は沼田や前橋で、各藩が幕府側につくよう説得に回っていました。
そして永倉新八と芳賀宜道にこう勧めます。
ご両所もこれよりいたして米沢へ拙者と同道めされ、米沢の兵をひきいて会津を救うようにしてはくださるまいか
出典元:「新撰組顛末記」永倉新八
雲井龍雄に勧められて、永倉新八は米沢へ兵を借りに行くことにします。
途中で、母成峠での戦闘中に隊からはぐれていた新選組隊士・近藤芳助と出会って拾い、4人で米沢城に着きます。
しかし、米沢城では佐幕派と勤王派に別れてどちらにつくか論争しており、なかなか会津に救援も出せません。
そうするうちに会津藩は敗戦してしまいます。
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会津戦争での永倉新八と雲井龍雄の別れ
会津が敗戦した以上、米沢にいても仕方がなく、会津にも戻れないことから、永倉新八と芳賀宜道は「江戸にひきかえして奔走」すると雲井龍雄に告げます。
雲井龍雄は米沢藩に仕えるよう誘いますが、永倉新八たちは「二君に仕えず」と辞退します。
新政府軍の目を逃れるため、永倉新八は馬具職人、芳賀宜道は生糸買いの町人に扮装します。
そして、武士の命ともいえる大小の刀を雲井龍雄に預けます。
この刀を預けるという行為から、相当な信頼を雲井龍雄に持っていたことが読み取れます。
また、この時かその前かは不明ですが、永倉新八は、「徳川の遺臣をまとめて薩長の遺臣とさいごの決戦をやろう」と、雲井龍雄と約束しています。
雲井に大小刀をあずけ、「江戸でふたたびご面会いたそう、さらばでござる」と、十一月一日米沢城下をあとにする
出典元:「新撰組顛末記」永倉新八
江戸でまた会おうと約束して、永倉新八は芳賀宜道とともに町人姿で江戸に帰ります。
これが、雲井龍雄との今生の別れでした。
永倉新八が雲井龍雄の首級と再会した小塚原刑場(現在の延命寺付近)
江戸に戻って永倉新八は、しばらく芳賀宜道とともに身を潜めます。
しかし芳賀宜道は、かつて住んでいた靖共隊結成の地・冬木弁天堂を訪ねた時、新政府軍側に仕えた妻の兄と口論から喧嘩になります。
柔道で義兄を組み伏せたところで、義兄の部下に斬られて亡くなってしまいます。
このことで浪人では身を隠しきれないと判断した永倉新八は、松前藩に帰参します。
永倉新八自身も、新選組時代に暗殺した伊東甲子太郎の弟・鈴木三樹三郎に命を狙われ、刺客を避けて生活します。
そんなある日、用事で両国橋を通りかかると、橋ぎわの高札に、雲井龍雄が斬首になったことが書かれていました。
こはいかにその立て札のおもてには、
「米藩雲井竜雄儀よういならざる陰謀あり、小塚原において斬首すべきものなり」
との意味が書いてある。永倉はおどろいて足を宙にとばして小塚原にきてみると、はや雲井竜雄の首がさらされてある。永倉はそれを見るより満眼の血涙一時に湧きいで「アア徳川幕府の命脈もここにまったく絶えはてた」と慟哭してやまなかった。竜雄はじつに徳川の遺臣をまとめて薩長の遺臣とさいごの決戦をやろうと、永倉とかたく約束していたのであった。
出典元:「新撰組顛末記」永倉新八
高札を見た永倉新八は、小塚原刑場(現・延命寺)に急ぎ、ここでさらし首になった雲井龍雄の首と再会し、血涙を流して嘆きました。
後年、永倉新八は米沢に、雲井龍雄の妻女を訪ねています。
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雲井龍雄
天保15(1844)年3月25日生まれ(永倉新八より5歳年下)の米沢藩士。
鳥羽伏見の戦いの敗戦後、薩摩藩の罪を述べて幕府軍側の士気を上げる「討薩の檄」を書きました。
戊辰戦争が終わり、謹慎の後で米沢藩からの推薦で集議員(当時)になります。
が、薩摩出身の政府関係者が多い中で薩摩を批判・議論するなどの振る舞いで、一月ほどで議員を辞めることになります。
その後、東京の芝に「帰順部曲点検所」を作り、旧幕臣や脱藩者などの失業した士族の救済活動をします。
しかし、新政府に不満を持つ旧幕府方の勢力が多く集まったことから、政府転覆を企んでいるとして幽閉されます。
深い取り調べもないまま死刑が決まり、明治3(1871)年12月28日に小伝馬町の牢で斬首されます。
享年27歳でした。
首は小塚原刑場にさらされ、友・永倉新八がこれを見て慟哭しています。
その後、首は隣の常行堂(現在隣にある小塚原回向院の前身)に一度葬られますが、後で谷中霊園に改葬され、さらに故郷・米沢の常安寺に改葬されます。
延命寺の隣の小塚原回向院には、「雲井龍雄遺墳」と刻まれた最初の埋葬での墓石が今も残っており、お参りすることができます。
延命寺の御朱印
首切地蔵の御朱印
小塚原刑場の仕置場の跡地、延命寺の御朱印は1種類です。
首切地蔵の右手のコンクリート作りの本堂でいただきました。
「小塚原刑場跡 首切地蔵 延命寺」と書いてあり、首切地蔵をデザインした朱印も押してあります。
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当時の小塚原刑場
現在南千住の延命寺が建つあたりは、幕末には小塚原刑場でした。
延命寺のあたりが仕置場で、今は線路に分断されている隣の小塚原回向院は、この地図には載っていませんが常行堂というお堂で、処刑された者や獄中死した罪人の供養をしていました。
その周辺には水田が広がっていました。
現在の小塚原刑場跡
延命寺の首切地蔵
荒川区の指定文化財です。
寛保元(1741)年に、刑死人や無縁仏の弔いのため、首切地蔵が安置されます。
当時の首切地蔵は現在の場所ではなく、線路の南、小塚原刑場の入口の街道沿いにありました。
雲井龍雄の首級に会いに来た永倉新八も、その状態で首切地蔵を見ていると思われます。
明治6(1873)年、欧米との付き合いで人権に配慮する必要が出てきた明治政府が、小塚原刑場を廃止します。
明治28(1895)年、鉄道工事のため、首切地蔵を使われなくなった仕置場の中(現在の延命寺付近)に移動します。
昭和57年、北側の線路の工事で小塚原回向院と敷地が分断され、首切地蔵の元に延命寺が創建されます。
平成23(2011)年、東日本大震災で左腕が落ち、胴体も大きくずれてしまいます。
平成24(2012)年、2回に渡る修復工事が行われ、元の姿を取り戻しています。
延命寺の題目塔
首切地蔵の横に題目塔があり、荒川区の指定文化財になっています。
延命寺は浄土宗なのですが、題目塔には法華宗や日蓮宗のお題目「南無妙法蓮華経」と刻まれています。
題目塔は、京の商人・八幡屋谷口氏が、全国の仕置場などに、すべての人の救済をうたって設置したものの一つです。
谷口氏が法華宗信者だったため、法華宗のお題目が刻まれています。
元禄11(1698)年に設置され、年を経るとともに土に埋もれていましたが、慶応3(1867)年、江戸の法華宗信者が掘り起こして設置し直しました。
首切地蔵と並んで、現在の線路の南、小塚原刑場の入口の街道沿いに設置されており、永倉新八もその状態で見ていると思われます。
鉄道工事のため、明治28年に現在地に移動しました。
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延命寺の敷地と本堂
南北を線路に囲まれています。
北側の線路で、隣の小塚原回向院と分断されています。
元は仕置場跡地全体が小塚原回向院の敷地でしたが、線路で分断された後に延命寺が独立しています。
本堂は昭和の現代的な建物です。
延命寺周辺の新選組ゆかりの地・観光スポット
小塚原回向院
小塚原刑場の隣に建てられた常行堂というお堂が前身で、刑死人の供養をしていました。
現在は線路で延命寺(小塚原刑場の仕置場跡)と分断されています。
永倉新八の友・雲井龍雄も、一度ここに葬られており、当時の墓石にお参りできます。
また、獄中死した新選組隊士・横倉甚五郎も、一度小塚原回向院に葬られています。
後に八王子の大法寺に改葬され、当時の墓石などはありません。
円通寺
幕府軍の戦死者を弔う「死節之墓」があり、近藤勇、土方歳三、野村利三郎の名も載っています。
その隣に、上野戦争の彰義隊の犠牲者を弔った彰義隊士の墓があります。(彰義隊には原田左之助も加入していました)
彰義隊の激戦地、寛永寺の黒門も移築されていて、無数の弾痕を見ることができます。