日野宿本陣は、土方歳三と近藤勇が出会った場所でもあり、沖田総司や井上源三郎、山南敬助など、新撰組設立時のメンバーが出入りしていた貴重な建物です。
土方歳三が14歳の時に火事で一度焼けましたが、その後建て替えられた現在の建物にも、新撰組メンバーの逸話が数多く残っています。
以前はここでそば屋を営業しつつ建物の保存に努めていましたが、現在は新選組をしのぶ資料館として内部を見学することができます。
日野宿本陣のアクセス・概要
休館日 | 毎週月曜日(祝日にあたる日はその翌平日)、年末年始(12月29日~1月3日) |
開館時間 | 9時30分~17時00分(入館は16時30分まで) |
住所 | 日野市日野本町2-15-9 |
アクセス | JR中央線日野駅から徒歩10分 |
駐車場 | 本陣前に10台分・無料 |
入館料 | 高校生以上200円 小・中学生50円 新撰組ふるさと歴史館共通観覧券 高校生以上300円 小・中学生70円 |
公式サイト | 日野宿本陣 |
日野宿本陣と新撰組の歴史
日野宿本陣は甲州街道の5番目の宿場町・日野宿(ひのじゅく)の中で、大名や身分の高い人が泊まる場所でした。
ここを運営する名主の佐藤彦五郎は、土方歳三の姉・のぶの夫で、近藤勇と義兄弟の杯を交わしています。
自分の住まいでもあった日野宿本陣の一角に道場を作り、江戸の試衛館から出稽古を呼んで、自分と地元の人に稽古をつけてもらっていました。
土方歳三はここで近藤勇と出会います。沖田総司や井上源三郎、山南敬助など、のちの新撰組設立メンバーになった人たちが出入りしていました。
箱館戦争後、土方歳三の遺品を持った市村鉄之助がたどり着き、二年間ここに匿われています。
日野宿本陣の新撰組関係のみどころ
土方歳三と日野宿本陣
土方歳三が昼寝をした座敷
土方歳三は京に行ってから何度か、隊士募集のため江戸に戻り、日野宿本陣に顔を出しています。
見学者が出入りする勝手口とは別に、門に面した表玄関がありますが、そこから続く10畳の部屋で、土方歳三が寝転んで昼寝をしていたそうです。
表玄関から続くこの部屋は、大名が日野宿本陣に泊まる時に通る場所。
そんな偉い人が通る場所で昼寝をするなんて、豪胆さが伺えますね。
甲陽鎮撫隊に出陣する途中で立ち寄った時は洋装断髪で、あの有名な写真のような格好になっていたそう。
また、箱館戦争の時、市村鉄之助に自分の遺品を届けさせたのもこの日野宿本陣です。
歳三梅
土方歳三は俳句が好きで、「豊玉」という俳号(俳人としてのペンネームのようなもの)で発句集を残しています。
日野宿本陣の梅を詠んだと思われる句もあり、佐藤家では、日野宿本陣前の梅を「歳三梅」と呼んで親しんでいたそう。
梅が楽しめるのはだいたい2月中旬~3月はじめです。
沖田総司と日野宿本陣
沖田総司は早くに両親を亡くし、母の実家がある日野に身を寄せていた時期があります。
そのため、ここにあった道場で天然理心流を学んだと言われています。
鳥羽伏見の戦いで敗走し、江戸に戻った後、近藤勇たちが「甲陽鎮撫隊」を結成して甲府に行くことになりました。
労咳(結核)で痩せてしまい、甲陽鎮撫隊には行かずに療養すべきと言われていた沖田総司が、自分も元気で戦えると見せるため、表玄関の式台(板張りの場所)で四股を踏んだという逸話があります。
幼い頃から付き合いのあった人たちに、心配をかけまいという気持ちもあったのかもしれませんね。
近藤勇と日野宿本陣
近藤勇は日野宿本陣にあった道場によく出稽古に訪れ、佐藤彦五郎とは義兄弟の杯を交わしていました。
甲陽鎮撫隊に任じられた時、大名格になったということで、大名が使う長棒引戸の駕籠に乗って日野宿本陣を訪れ、故郷に錦を飾っています。
表玄関は大名のような身分の高い人が使う玄関なので、この時はこの玄関を使ったと思われます。
市村鉄之助と日野宿本陣
箱館戦争まで土方歳三に付き従った15歳の新撰組隊士・市村鉄之助は、新政府軍の総攻撃を前に、土方歳三の手紙や写真などを託され、箱館から脱出するよう命令されます。
「最期まで共に」と願ったそうですが、鬼の副長の顔で怒られ、命令を受諾。
命令を受けると土方歳三は一転して微笑んだそう。可愛がっていた年少の市村鉄之助を逃がす意図があったと言われています。
市村鉄之助は2ヵ月かけてこの日野宿本陣にたどり着き、土方歳三の遺品を届けます。
鉄之助が届けたのは、現在土方歳三の写真として知られるあの洋装断髪の写真や、手紙と遺髪、辞世の句「よしや身は蝦夷の島辺に尽きぬとも魂は東の君やまもらむ」など。
その後2年間、市村鉄之助は新政府軍に罪に問われないよう、この日野宿本陣に匿われていました。
門から入った時に建物に向かって一番右手に見える、6畳の控えの間がそうです。
市村鉄之助が匿われた部屋のふすまの文字は、土方歳三が書を習った、国立の本田覚庵の孫・本田石庵が書いたものです。
大石鍬次郎と日野宿本陣
京で伊東甲子太郎の暗殺を実行した新撰組隊士・大石鍬次郎ですが、若いころは生家を出奔し、大工の元で日銭を稼いでいた時期がありました。
この時、一度火事で焼けた日野宿本陣の再建工事に関わりました。
日野宿本陣には、携わった大工の名が記された棟札が展示されていますが、そこに大石鍬次郎の名前があります。
この工事に携わった縁で、ここにあった天然理心流道場にも出入りし、近藤勇が江戸に戻って隊士募集をした時に新撰組に入隊しました。
新撰組メンバーも触れた古い門扉
日野宿本陣にあった古い門扉が、入ってすぐ左の映像展示に行く途中あたりに展示されています。
この門扉を手で押し開けて、新撰組メンバーも訪ねてきたことでしょう。
この門扉は触れることができるため、彼らの触れただろう門扉の金具がたくさんの人に触れられて一部ピカピカになっています。
佐藤道場跡の碑
現在の日野宿本陣の門は、大正15年に火事で焼けて再建されたものです。
この門の向かって左側に、天然理心流佐藤道場がありました。
そこに近藤勇が出稽古に来たことで、佐藤彦五郎義弟の土方歳三と出会います。
道場も大正の火事で焼け、現在は駐車場になっています。
天然理心流佐藤道場跡の碑が、門前に建てられています。
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日野宿本陣と火事
日野宿本陣の火事
日野宿本陣の母屋は1849年(近藤勇15歳、土方歳三14歳、沖田総司7歳)の時一度火事で焼けています。
この火事をきっかけに、佐藤彦五郎は自衛の必要性を痛感して、同じ敷地(現在駐車場になっているあたり)に道場を作り、江戸の試衛館から出稽古に来てもらいます。
そこに近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助などが出入りしていました。
現存する日野宿本陣はその後建て直され、1864年、浪士組が京に向かった翌年から使用されているものです。
近藤勇・土方歳三は隊士募集に何度も江戸に戻ってはこの建物に顔を出し、甲陽鎮撫隊に行く時にも沖田総司たちと立ち寄っています。
有山家の火事で日野宿本陣から移築された上段の間
明治26年、日野宿の東側を焼いた大火で、佐藤彦五郎の四男が養子に出て跡を継いでいた有山家が被災します。
この時、佐藤家から有山家に、日野宿本陣にあった「上段の間」が移築されます。
明治天皇が休憩されたこともあり、特別に身分の高い人が使う部屋でした。
有山家にこの上段の間は今もありますが、非公開となっています。
ただ、有山家の子孫の方が「cafe花豆」を週末だけ営業していて、そのカフェ内の奥側の部屋から、庭の向こうの母屋にある上段の間を外観だけ垣間見ることができます。
日野宿本陣で昔営業してたそば屋は今どこにあるの?
日野宿本陣が現在のような資料館として見学できるようになる前、この建物を利用したそば屋さんが営まれていました。
「日野館」というそば屋さんで、昭和55年から平成15年まで営業していました。
この建物を所有していた家の三男が開いていたそば屋で、人が使わない家が傷むことから、建物の保存のため、後世に残すために開店したお店です。
現在の日野宿本陣が資料館として公開された後、「日野館」は新選組ふるさと歴史館の近くに移転営業していましたが、残念ながら平成30年に閉店してしまいました。お疲れ様でした。
日野宿本陣に行ってみた感想
新選組創設メンバーと本当にゆかりが深い場所で、当時の雰囲気が感じられます。見るものすべて楽しく見学できました。
ガイドさんがいる時は、ガイドさんに説明してもらうのがオススメです。
細かい逸話も色々教えてくれます。
日野宿本陣近くの新撰組ゆかりの観光スポットとアクセス
日野宿交流館
徒歩1分。1階が売店、2階の展示の一部が新選組と春日隊について。
佐藤彦五郎新選組資料館(第1・3日曜のみ)
徒歩3分。佐藤彦五郎の元に送られた各隊士の手紙、土産、ゆかりの品の展示。
日野宿ちばい
徒歩4分。近藤勇ゆかりの血梅があるそば屋さん。
井上源三郎資料館(第1・3日曜のみ)
徒歩5分。六番隊隊長、井上源三郎に関する展示や、その兄が新選組の相談に乗ってた日記など。
cafe花豆(土日祝日のみ)
徒歩4分。「上段の間」が移築された有山家子孫が週末だけ開いているカフェ。
上段の間は非公開ですが、カフェ奥側の部屋から庭ごしに外観だけ見えます。
高幡不動方面に行きたい場合
- 生活保健センターバス停(徒歩4分)→日02系統高幡不動駅行バス→4分乗車、4駅先「南平」下車、徒歩6分で高幡不動尊
- 日野本町バス停(徒歩2分)→日野市ミニバス高幡不動駅行→20分乗車、9駅先「高幡不動駅」下車、徒歩2分で高幡不動尊
など、バスが便利です。
日野宿本陣近くで行われる「ひの新撰組まつり」
毎年5月に日野宿本陣近くをパレードルートにして「ひの新撰組まつり」が行われます。