現在の千葉県野田市にあった山崎宿は、原田左之助が永倉新八と別れて江戸に引き返した宿場です。
原田左之助は慶応4年4月14日に山崎宿から江戸に引き返した後、彰義隊に入って上野戦争で重傷を負い、5月17日に亡くなりました。
山崎宿が、原田左之助と永倉新八の今生の別れの場で、運命の別れ道でした。
ここではその山崎宿を紹介します。
山崎宿のアクセス・基本情報
山崎宿のアクセス・基本情報
住所 | 野田市山崎1679-1付近 |
アクセス | 東武アーバンパークライン(東武野田線)梅郷駅から徒歩3分 |
駐車場 | なし 周辺コインパーキング ナビパーク野田山崎第4(30分100円)など |
関連サイト | 山崎宿(野田市観光協会) |
山崎宿の地図
山崎宿での原田左之助と永倉新八の別れ
靖共隊の結成から江戸城出発まで
永倉新八と原田左之助は、慶応4年3月12日(新暦1868年4月4日)、近藤勇と土方歳三と意見が合わず、新選組を離隊します。
そして、永倉新八と同じ神道無念流で、若い頃に一緒に武術修行の旅をしたこともあった友、芳賀宜道(はがよしみち)を隊長に、靖共隊という新たな隊を作ります。
新選組を脱退した他の隊士もそこに加わりました。
靖共隊は会津藩お抱えとなり、江戸城和田倉門にあった会津藩邸でフランス式の調練を行います。
が、江戸城明け渡しが決定したので、慶応4年4月10日(新暦1868年5月2日)、江戸城を出発します。
靖共隊の行軍
靖共隊は行徳宿(現在の千葉県市川市)を通り、「日光東往還(にっこうひがしおうかん)」という日光街道の脇街道に入ります。
そして、その宿場町である山崎宿(千葉県野田市)まで来ます。
山崎宿での別れ
慶応4年4月14日(新暦1868年5月6日)、山崎宿まで来たところで、原田左之助は江戸方面に引き返します。
行徳宿ヨリ水戸海道山崎宿ニテ 原田左之助 無余儀用事コレアリ 行徳宿マテ戻ル 直ニ跡ト追イカケ参ル筈之処 官軍立テ切リ参ル事不叶
行徳宿から水戸海(街)道に出て、山崎宿で原田左之助は仕方のない用事があって行徳宿に戻った。ただちに追いかけてくるはずだったが、官軍が「立テ切リ」(「立ち仕切って」の意か)戻ってくることができず
「新選組戦場日記 永倉新八『浪士文久報国記事』を読む」(木村幸比古著)
これが、永倉新八と原田左之助の今生の別れになりました。
永倉新八が晩年に小樽新聞社の記者に口述した「新選組顛末記」では、「妻子の愛着にひかされ辞をもうけて江戸へ引き返した」となっています。
「浪士文久報国記事」はそれより前、明治8年頃に永倉新八が書き残した回顧録ですが、仕方のない用事という以外、原田左之助が引き返した理由は出てこず、すぐ追いかけてくるはずだったが官軍が立ちふさがっていて戻れなかったと書かれています。
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その後の原田左之助
対ニ上野戦争之節 原田左之助討死
ついに上野戦争で原田左之助は討死した。
「新選組戦場日記 永倉新八『浪士文久報国記事』を読む」(木村幸比古著)
その後、原田左之助は江戸で徹底抗戦しようとしていた彰義隊に入ります。
慶応4年5月15日(新暦1868年7月4日)、上野の寛永寺一帯(現在の上野公園)を舞台にした上野戦争で重傷を負います。
味方だった本所(現在の江東区森下)の神保山城守邸まで逃げ延びますが、翌々日の慶応4年5月17日(新暦1868年7月6日)、息を引き取りました。
享年29歳でした。
山崎宿で引き返したことは、原田左之助の運命の別れ道でした。
原田左之助は、墓がどこにあるかは不明です。
墓参りをしたい場合は以下の3か所となります。
板橋の近藤勇墓所・新選組隊士慰霊碑
正面には近藤勇と土方歳三の名が彫られていますが、向かって右側面の最上段右から2番目に原田左之助の名があります。
上野公園の彰義隊の墓
当時の寛永寺境内(今の上野公園)で野ざらしになっていた彰義隊士の遺骨が火葬された場所です。
荒川区円通寺の彰義隊の墓
火葬された彰義隊士の遺骨が収められた場所です。
隣には旧幕府軍戦死者を供養する「死節之墓」があり、右側面に近藤勇、野村利三郎、裏面に箱館戦死者として土方歳三の名があります。
原田左之助の馬賊伝説
原田左之助は実は上野で死んでおらず、大陸へ渡って満州で馬賊の頭目になったという伝説があります。
「愛媛新報」大正12年6月7日夕刊(6月8日朝刊に挟みこみ)には、日露戦争が終わった明治40年(1907年)頃、原田左之助を名乗る老人が故郷の松山で、実弟の大原半次など親類の元を訪れて、金品を置いていったという記事が載っています。
弟の半次は原田左之助が坂本龍馬暗殺犯と信じていたため、明治政府の敵である兄と関わり合いになることを恐れ、よそよそしい対応でした。
その後、原田左之助を名乗る老人は大原半次の義弟・大次郎と、半次の次男(原田左之助の甥にあたる)・白坂鹿次郎を訪ねて金品を渡し、「鉄嶺」(てつれい・旧満州の都市で日本人居留地があり、日本軍も駐屯していた。上の地図の町)に帰ると言って立ち去りました。
この話の真偽はいまだ不明です。
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その後の永倉新八
山崎宿で原田左之助と別れた後の永倉新八は、岩井宿、室宿などを経て慶応4年4月19日(新暦1868年5月11日)、鹿沼宿(栃木県)で幕府軍の大鳥圭介と合流します。
原田左之助と別れて5日後のことでした。
その後は今市の戦いで苦戦し、会津戦争であちこちで破れて兵が散乱し、米沢に援軍を求めに行きます。
が、米沢藩が新政府軍と和平を結んだので援軍は出ず、会津は降伏します。
永倉新八は米沢に潜伏した後江戸に戻り、松前藩士として帰参します。
明治4年(1871年)には藩医の杉村介庵の娘・きねと結婚し、婿養子になって松前(北海道)に渡ります。
以降、小樽(北海道)に移り、杉浦義衛を名乗り、一男一女に恵まれます。
明治9年には東京の板橋に近藤勇の墓・新選組隊士慰霊碑を建てるなど、新選組隊士の供養に奔走します。
「新撰組回顧録」「同志連盟記」など、新選組の記録を残すことにも務めました。
明治15年から、樺戸集治監(刑務所・北海道月形町)の看守に剣を教える剣術師範になります。
その後一度東京に戻り、斎藤一の住居とも近い文京区に住みますが、明治32年に再度小樽に渡ります。
晩年まで剣術を教えるなど、剣術に関わっていました。
晩年には孫と活動写真(映画)を見て、
「近藤、土方は若くして死んでしまったが、自分は命永らえたおかげで、このような文明の不思議を見ることができた。近藤や土方がこの文明の不思議を観たらどう思うだろう」
と、孫に話すこともありました。
永倉新八は大正4年(1915年)1月5日、虫歯を抜いたことから骨膜炎と敗血症を起こして小樽で亡くなります。享年77歳でした。
墓は小樽市緑の中央墓地と、札幌市清田区の里塚霊園一期3号762番、そして東京都板橋区の近藤勇墓所の脇の分骨墓の3か所です。
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現在の山崎宿跡
灯篭型の山崎宿碑が立つ
東武アーバンパークライン(東武野田線)の梅郷駅近くの交差点に、山崎宿の碑が立っています。
文化3年の絵図に、山崎宿の道路中央に常夜灯が描かれていたことから、モニュメントとして建てられた常夜灯の形をした碑です。
山崎宿の説明をした案内板が碑についていますが、原田左之助と永倉新八の別れについては触れられていません。
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折れて風化した謎の石塔
山崎宿碑が立っている交差点から一本南へ、東武野田線に平行に140メートルほど柏方面に進むと、根本からポッキリ折れた石碑があります。
こちらも街道沿いで宿場だった場所なので、永倉新八や原田左之助が通った場所ですね。
永倉新八たちから見ると、この街道の南の方から来て、ここを通って山崎宿の石碑のある方向に向かっていて、どの地点かはわかりませんが山崎宿の宿場内から原田左之助が引き返したことになります。
Googleマップで見るとこの場所が「原田左之助 靖兵隊離縁の地」と誰かが登録していて表示されるのですが、この石碑が何かはわかっていません。
風化しており、彫られた文字もほとんど読めない状態です。
幕末当時の山崎宿
「日光東往還」の宿場
水戸街道から分岐して日光街道に入る「日光東往還」という、日光街道の脇街道がありました。
水戸街道の小金宿(千葉県松戸市)と我孫子宿(千葉県我孫子市)の間(現在の柏市、JR南柏駅付近)にある追分(別れ道)で分岐し、現在の栃木県宇都宮市雀宮で日光街道に合流する、脇街道です。
現在東武アーバンパークライン(東武野田線)が通っている流山市の東の方(近藤勇たちが滞在した陣屋跡などからは離れています)にあった、小金牧(こがねまき)という軍馬育成の牧場を通って、野田市に入ります。
その、「日光東往還」に入って最初の宿場が山崎宿でした。
本陣はない宿場
特定の本陣はなく、名主や問屋の協議で、その都度本陣と脇本陣を定めていました。
江戸時代には三十数戸の家や宿がある小さな宿場でした。
将軍家が日光参詣をする時に、警護をする諸大名などが泊まった記録があります。
山崎宿周辺の新選組ゆかりの地・観光スポット
流山の北側にあるので、流山の史跡が比較的近いです。
流山市立博物館
流山での新選組の動きなどの展示があります。
また、幕末には田中藩の陣屋だった場所に建っていて、新選組は田中藩の陣屋を乗っ取る計画だったという田村銀之助の談話もあるなど、縁のある場所です。
矢河原の渡し跡
「大久保大和」と名乗った近藤勇が出頭する時、流山を去った渡し場。
矢河原の渡し場から対岸(現在の埼玉県三郷市)に渡り、越谷宿を経て板橋宿に行き、二度と戻りませんでした。